2012年4月11日水曜日



「もしもナルニアのような国があったとして、その国を救う必要があったとしたら、そして神(海の向こうの大帝)の御子が、ちょうどわたしたちの贖いのために地上にこられたように、ナルニアを贖うためにそこをおとずれたとしたら、その世界ではどんなことが起こるだろうか?」(1)

 そんなC・S・ルイスの問いに始まった『ナルニア国ものがたり』(岩波書店、全7巻)は、児童文学史上に確固たる地位を確立し、発表からほぼ半世紀を経た今も多くの読者を魅了している。昨年にはシリーズ第一作『ライオンと魔女』をもとにした絵本が発表され、現在グリーナウェイ賞候補に挙がっている。

 このユニークなファンタジーには今まで様々な論評が寄せられてきたが、中でもカーネギー賞受賞作家、フィリップ・プルマンが1998年にガーディアン紙に発表した『The Dark Side of Narnia』は大いに物議を醸した。それは、プルマンがルイスを「distasteful――不快きわまりない」作家であると断定し、『ナルニア国ものがたり』を「one of the most ugly and poisonous things I've ever read――自分が今まで読んだ中で最も醜く、最も有害な作品の一つ」と、感情を剥き出しに酷評したからだ。プルマンの非難はナルニア全巻に及ぶが、その攻撃の一番の矢面に立つのは、1957年にカーネギー賞を受賞した、シリーズ最終作『さいごの戦い』だ。


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 プルマンは、この巻でスーザンの存在が切り捨てられていることを厳しく追求した。プルマンの目に映る「ナイロンとか口紅とか、パーティーとかのほかは興味ない」スーザンは、少女から大人の女性に変わろうとする興味深いキャラクターに他ならない。その貴重な成長過程を拒むルイスこそ、言わば女性恐怖症で性差別者なのだ。また、プルマンが最も我慢ならないのは、アスランが人間の子どもたちを新しい世界に導く最後の場面で、彼らが現実の世界では列車事故に遭い、すでに死んでいるのだと都合よく説明していることだという。プルマンはこれを、生を軽視し、死を美化する無責任な観念だと言い放つ。

 しかし、「supernaturalism――超自然」を公然と嫌悪するプルマンの視点は、超自然――キリストの受肉、贖い、復活――に望みを抱き、究極の価値を置くC・S・ルイスのそれとは完全にずれており、どこまで行っても平行線をたどるのみだろう。プルマンの活用している価値判断が現実の世界で人間が五感を通して体験できるものを前提としているのに対し、ルイスは人間の霊魂レベルにおいてのみ得られる、神への深い探求心と関わり合いに基準を設けているからだ。


最も報告の奇跡はどこにあるの

 スーザンはシリーズの途中ですでにアスランに対する関心の薄れを示していたが、最終作『さいごの戦い』では、ナルニアを「わたしたちが子どものころによく遊んだおかしな遊びごと」と片付け、自らの意思で「ナルニアの友」でいることを拒否するまでになってしまった。彼女は、目に見えないものの存在と価値とを否定する唯物主義的思想を身につけたのだ。「スーザンに……ほんとうにおとなになってもらいたい……」という作中人物の言葉には、いつかは消えてなくなるはずの事柄に囚われて、恒久的価値を見失うことがないようにしてほしい、とのルイスの本心が込められているのだろう。ナルニア全巻に渡って、ルイスが等しく英雄と称し、読者の心に印象強く残るよう意図したのは、アスランを心から愛し、アス� ��ンを信頼し、そしてアスランに従うことを切望するルーシィ、リーピチープ、泥足にがえもんなどのキャラクターたちなのだ。


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 そのようなルイスの価値基準が『さいごの戦い』の死と死後に関わる描写にも反映されている。ルイスは、肉体の死後も霊魂が生き続けることを信じていた。ルイスにとって、アスランの国、天国とは、良いものに何一つ欠けることのない、神が支配する完全な王国なのだ。そこには、ナルニアに存在していたような悪も、悲しみも、苦しみもない。代わりに愛と喜びと平和のみが満ち溢れている。ルイスは、『さいごの戦い』で、自分が望みを置いた天国の素晴らしさを描くことにより、ナルニア同様、悪、理不尽さ、試練が存在する現実の世界に生きる読者に励ましを与えることを意図したのだ。それは、プルマンが誤解するような生を半ばあきらめたり、死に急ぐといった現実逃避の観念とは異なる。後に来る世が素晴らし� ��からこそ、例え、今は困難の中にあっても希望と勇気を持って生きていこうとの作者からのエールなのだ。

 果たして、『ナルニア国ものがたり』を読んだ子どもたちの多くが、そこに「もう一つのお話が隠されていること」(2)を理解し、ルイスが秘めたメッセージを正確に汲み取った。特に最終巻『さいごの戦い』では、読者はここに到達するまでに、ナルニア建国、悪の侵入、そしてアスランの贖いの死と復活という波乱に満ちたナルニアの歴史を目の当たりにしてきている。だからこそ、「ハルマゲドン」、「最後の審判」、「天国」こそが、ナルニア史の幕を降ろす『さいごの戦い』に最もふさわしいテーマなのだと納得することができるのだろう。


 キリスト教文化の中に生きる読者たちにとって、原題の『The Last Battle』は、それら終末に関わるテーマを予感させる響きを持つ。物語最初に偽アスランが登場する場面も、キリストの有名な終末預言、「世の終わりには……わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『わたしこそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう」を思い起こさせる。

 また、聖書に対して詳しい知識を持たない読者にとっても、急速に進むナルニア没落のただ中にあって、アスランが変わらず存在していることは大きな慰めに違いない。巻末でアスランが悪を裁く場面には神に宿る正義を、アスランが「ナルニアの友」たちを「アスランの国」に招く場面には神に対する希望を見出すことだろう。

 この天国への希望と憧れは、聖書の知識のある無しを問わず、プルマンが激しく責め立てているような、生をあきらめる論理にすり替わることはまずあり得ない。読者たちは、絶対的存在であるアスランが自らの死を引き換えにしてまでも、エドマンドの命を尊厳あるものとし、救い出したことを熟知している。そして、そのようなアスランの愛に応えようと、ナルニアの英雄たちがアスランを慕って、懸命に生きている姿を繰り返し目撃しているからだ。

 このように、批評を受ける側に立つことの多かったC・S・ルイスは、かつて、批評家の多くには「良心的態度――批判すべき本の精読」(3)が欠如しており、批評の対象となる作品に対する「自分の無知を知らない」(4)と憂えた。しかし、イギリス文学批評家、アーサー・クイラー・コーチは古典作品の文学的意義に絶大な信頼を寄せ、こう断言する。


「それ(古典)は、どのように扱われてもすりへらずに、最初にそれを鋳造した気高い心の刻印をいつまでも残している。――あるいは、こういうべきだろうか、その後代々の人々がその鋳貨を鳴りひびかせて真贋を問うたびに、鋳型となった魂の余韻をひびかせつづける、と。」(5)

 その意味では、古典、『ナルニア国ものがたり』に寄せられる批評はいかなるものでも歓迎されるべきだろう。例え、その批評が好意を示すものにしろ、逆に悪意に満ちるものにしろ、それら全てによって試みを受け、その試みに耐えてこそ、古典としての地位を真に享受できるのだから。


引用出典: (1)(2)『子どもたちへの手紙』C・S・ルイス(中村妙子訳)
(3)(4)『別世界にて』C・S・ルイス(中村妙子訳)
(5)『児童文学論』L・H・スミス(石井桃子、瀬田貞二、渡辺茂男訳)

(C) 1999 Amy Gould. All rights reserved.



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