1.今、お読みしました「お話し」は、イエスが語った譬え話の中で、もっとも知られているもので、「善いサマリア人の譬え」と呼ばれているものです。
全国に約50ヶ所ある自殺予防の電話相談に、「いのちの電話」があります。日本でこうした電話相談が始まったのは1971年のことですが、世界初の自殺予防がチャド・バラー牧師によって始められたのは1953年、ロンドンでのことでした。この電話相談の名前を「サマリタンズ」と言います。「サマリタンズ」とは、今日の聖書箇所の「善いサマリア人」の「サマリア人」の複数形です。(ちなみに、ロンドンの「サマリタンズ」は日本語の電話相談をも行っています。)このように、イエスの語った「善いサマリア人の譬え」は今日、世界中で、様々なボランティア活動に影響を与えていると言ってよいでしょう。
2.それでは、改めて荒筋を辿ってみましょう。
1世紀のパレスチナの街道筋でのことです。ユダヤ人と思われる一人の旅人が道を進んでおりました。この街道はごつごつした丘陵地帯を通っており、昔から強盗が出没することで知られていました。しか し、この話では、旅人は単独で旅行し複数の強盗に襲われました。相手は複数ですので、滅多打ちにされて意識不明となり、身包みはがれて、道端に捨て置かれてしまいました。
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そこへ「祭司」と「レビ人」が別々に通りかかります。けれども、二人とも見て見ぬふりをして立ち去ります。「祭司」とは高位宗教家のことを指し、「レビ人」はその助手のことです。つまり、通りかかった二人の宗教家が傷ついた旅人を見捨てた、とイエスは物語るのです。これは当時と今日の宗教界に対する強烈な批判です。えりを正したいと思います。
そこへ、一人の「サマリア人」が通りかかりました。ユダヤ人とサマリア人の間には歴史的なわだかまりがあって、当時お互いに差別し合っていました。しかしイエスは、旅人を助けた、いわばヒーローをサマリア人として描きました。このサマリア人� �傷ついた旅人を宿まで運び、一晩介抱した上で、お金を宿屋の主人に渡して後のことを頼み、宿から出て行こうとしました。ここで、イエスのストーリーは終わっています。
3.さて、この話には色々な内容が込められていますので、一度にすべてを話すことが出来ません。今日はポイントを一つに絞りたいと思います。
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今、被害者は気絶しており、衣服を剥ぎ取られています。裸の人間として倒れています。そこへ誰かが通りかかりました。その人は倒れている人に気づきます。この地域の主要道路を旅する人は、自分が同じ民族の者と出会うとは考えなかったそうです。それほど、他民族社会であったのでしょう。旅で出会う人が何人かはどうやって見分ければよいのでしょう? しかも、香港の空港で行きかう東アジア人と一緒で、肌の色や顔つきでは判断できません。見分けるとすれば、それは着ている服と話す言語からです。
服で見分けがつけば、遠いところからも見当がつきます。実際、1世紀のパレスチナでは民族によって着るものが違って区別がついたことが発掘された壁画から分っているそうです。しかし、ストーリーの被害者は裸です。外見では何人だか分りません。
そこで、倒れている人に近づきました。そして少し離れたところから、おそるおそる語りかけます。「もしもし、どうされました? 大丈夫ですか? どちらの国からですか? 話せますか?」
一世紀のパレスチナでは、様々な言葉が話されていました。アラム語、ヘブライ語、サマリア語、ギリシア語、ラテン語南西アシドド語、フェニキア語、アラビア語などです。返事が返ってくれば何人だかすぐに分るでしょう。しかし、この人は気絶しているではありませんか! どこの国の人だか分らないのです。民族と民族が複雑に絡み合っている時代、何人か分らない人に係わり合いになるのはためらわれます。
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そのように、イエスが作り上げた物語の設定では、被害者はどの民族、どの宗教・文化にも属していない「裸の人間」として援助を求めているのです。あるいは別の言い方を試みれば、その人は「裸の人間」になって通りがかった者に無言の声を発して問いかけているのです。「この裸のわたしにあなたはどのように向き合いますか?」と。
物語では、サマリア人が気を失っている被害者に手を差し伸べるようになった動機を、「その人を見て、憐れに思った」からだと描いています。しかし、この「憐れに思った」という翻訳では不十分ではないかと思います。ここでの原語は、「内臓」という語から派生した「はらわたを突き動かされて」あるいは「内臓を引き絞られるような思いになって」とでも訳されることばが使われているからです。これを私なりに言い換えれば、物語のサマリア人は、サマリア人という民族としてではなく、サマリア教徒としてではなく、一人の素の人間として、一人の「裸の人間」として倒れている人に向き合ったということではないでしょうか?
4.もうすぐ夏休みが始まります。この時期、実習に出かける人たちも多くおられると思います。ボランティア活動に取り組む人もいることでしょう。サークル活動で色々な人と接する機会を持つ人たちもいるかもしれませんし、どこか旅行に出かけて違った文化と触れ合う方々もいるでしょう。
私たちが人と接するとき、その人にくっついている色々なものが先に見えてきて、その人のありがまま、今日の話しで言えば、「裸としての人間」が背後に隠れてしまうことがありがちです。ケアにおいては、利用者さんがどのような肌の色や文化的背景を持っていても、同じ質のケアを提供することが求められますし、そのように誰もが考えて行動していると思います。しかし、そのような「人としてどのような人とも対等に接する」考え方が社会の中で定着するようになったのは、最近になってからです。いや、本当の意味でまだまだなのかもしれません。
わたしも一人の人間として、そして相手も一人の人間として存在しており、その一人の人間として合い向か� �合う、そのことの意味をイエスは物語ってくださったように思います。私たちもただ一人の人間として、つまり「裸の人間」として他者と向き合う場面が、人生の大切なポイントで訪れることがあるでしょう。そのことをすでに経験しておられる方も多いでしょうが、この夏、そのときが訪れる人たちもいるかもしれませんね。神さまのお支えと励ましをお祈りいたします。
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