2012年4月24日火曜日

聖書ものがたり・ROMANS(ローマの信徒への手紙)からREVELATION(黙示録)まで | LEGACY OF ASHES



使徒言行録続篇も含めこれで聖書ものがたりは終了です。聖書はVernal Equinox Precessionといって春分点歳差運動のことです。キリスト教を理屈を超えて信仰しようにもそれが事実であることを立証する意味でも今までくどいように記事を書いてきました。ですから皆さんがどうご理解しようが自分の考えを整理するためにこのような聖書ものがたりを書く必要があったのです。人間を下僕とみなし逆らう人間は容赦なく皆殺し、と言う恐ろしい存在は、実は「神」ではなく、デミウルゴス(Demiurge)と言う堕落した天使にすぎない、と考えるのは決して間違ってはいないし個々の人間やすべての植物や生き物はそれぞれ神が内在しているのです。これが管理人の結論です。悪人は本当の神でなくデミウルゴスが内在しているということでしょうか。実は牧師さまはこのことを知っているので� ��よ。なお引用させていただいた江礼宮夫牧師のリンクフリーの解説に感謝申し上げます。

米国は東インド会社の末裔。そんなに遠くない将来その規模は1/3になる予定です。

 東方の夢・東インド会社T

 東方の夢・東インド会社U

生きる糧を得るということは大変なことです。希望退職で生き残るために昨日までの友人を突然切り捨てる,これがサラリーマンです。希望退職ですからね,課長や部長に言われたって彼らだって単なる従業員(裁判所の判例で取締役は除く)なのですよ。ですからそんな権利は当然ありませんし,もし執拗に言われたら『指名解雇』したら!!と言ったらいいのです。裁判所に『仮処分』申請すればすぐおりますからね。10年間遊んで暮らせるわけです。そして最後に五千万円以上の慰謝料が.........。条件次第では辞めたほ� ��がいい場合もありますが,大概の場合優秀な人はさっさと辞めてしまい残るはガダラの豚(マタイ8:28〜34)ばかりただし,整理解雇などは別で仮処分はおりない。

 拙稿:入社の季節

 富普加美恵多目(とうかみえみため)

 ある会社は毎日,ラジオ体操のあと巻物を広げて,会社の遵奉すべき七精神を唱和し 次に所感発表をし 次に全員で社歌を歌う 最後に 課長がまるで「司祭」のように再び7精神を読み上げ,まるで「啓示」を待っていたかのように再び全員で唱和する これが毎日くりかえされる。 

そこでは人生の哲学も 個性的に生きてゆく座標軸(もともとそんなものは持っていない� �でしょう)瞬間的に壊される。こうして利益を出す仕組みができてゆく。しかしながら管理人の海外での長い雇われ社長の経験からすれば給料をいただく立場の人のほうがはるかに気楽でよいのですよ。かばん持ちしか出来なくてもくすぐり方を覚えて日本一のかばん持ちになれるよう努力をすることです。経営者は嘘と分かっていても『よいしょ』されるのが大好きなのです。それほど孤独だってこと。後ろを見たって誰もいない寂寥感はやってみないとわからないよ。

 世の奥様に教えてあげよう。もしご主人が何もかもに追い込まれ会社を辞めざるをえなくなってもこう啖呵をきれば立ち直るのですよ。首根っこ捕まえて大声で『たとえ世界のすべての人があなたの敵になっても私だけはあなたの味方ですよ』と� ��これで何の反応も示さない男とはすぐに別れるべし。また,「今までと同じ生活を保障して」などと言う女性もいるそうですが張り倒し,蹴っ飛ばしすぐ出て行ってもらうべし。そんな女性を選んだ方が悪いのですがね。この人たちは結婚を就職と考えているのです(ほとんどがそうでしょうけど)。落合監督の奥さんは悪妻で有名ですが実はとんでもなく賢明な女性なのです。かつて日常生活のテレビ番組を見たのですが,奥さんは『私は月五万円で生活できますからね』と何回もご主人に囁くのです。五万円は無理としても10万円で十分な生活が出来るように自分を変化させるのは誰にでも出来ることではありません。

 ヨブへの答え:教会の原理と精霊の原理参照

 使徒信条の問題点

ROMANS・ローマの信徒への手紙T:全人類の救い

ROMANS・ローマの信徒への手紙U:開放・新生論

ROMANS・ローマの信徒への手紙V:ユダヤ人との和解

ROMANS・ローマの信徒への手紙W:新しい掟

T.CORINTHIANS・コリントの信徒への手紙 その1(福音の自由)

T.CORINTHIANS・コリントの使徒への手紙 その2(教会の秩序)

U.CORINTHIANS・コリントの信徒への手紙 その1(和解の手紙)

U.CORINTHIANS・コリントの信徒への手紙 その2(パウロの誇り

GALATIANS・ガラテヤの信徒への手紙(福音と律法)

EPHESIANS・エフェソの信徒への手紙と第二書簡

PHILIPPIANS・フィリピの信徒への手紙・キリスト賛歌(含むPHILEMON・フィレモンへの手紙

COLOSSIANS・コロサイの信徒への手紙と第二書簡

T.UTHESSALONIANS・テサロニケの信徒への手紙T・再臨は近い。手紙U・終末の遅延

T.UTHIMOTHY(テモテへの手紙T・U)TITUS・テトスへの手紙(司牧マニュアル)

HEBREWS・ヘブライ人への手紙・ユダヤ人キリスト者へ

JAMES・ヤコブの手紙とT.PETER・ペトロの手紙T・ユダヤ人キリスト者へ

U.PETER(ペトロの手紙U)とJUDE・ユダの手紙・ユダヤ人キリスト者に

T・U・VJOHN・ヨハネの手紙・神は愛

JUDE・ユダの手紙とU・PETER・ペトロの手紙U・全ユダヤ人に

ヨハネの黙示録T


ヨハネの黙示録U

新約聖書成立の謎

木村喜一著作集


 ENUCHがEUNACHと明らかにある意図をもって改竄された使徒言行録。詳しくは拙稿「失われた時を求めて」参照

 コロサイの信徒への手紙でグノーシス主義の異端に攻撃されていることを嘆き,エノクを宦官(去勢された人の意味)とすることによって表の舞台から消し去った(エチオピアがアダムとイブの舞台であることも含めて)。これによってパウロはキリスト教のスターとなった。木村喜一氏の著作にもこの指摘はないし,ありとあらゆる聖書の書評にENUCHをEUNUCHと改竄したいやらしさを批判した文章はない。

 ETHIOPIANS.......COME TO JERUSALEM FOR TO WORSHIP

Now an angel of the Lord said to Philip,"Go south to the road-the desert road-that goes down from Jerusalem to Gaza.So he started out,and on his way he met an Ethiopian eunuch,an important official in charge of all the teasury of Candace,Queen of the Ethiopians......


どのような古代ローマの食品は、日常生活をしなければならなかった

 さて,主の天使はフィリポに,「ここをたって南に向かい,エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から,エチオピアの女王カンダケの高官で,女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が,エルサレムに礼拝に来て,帰る途中であった。<使徒言行録8:26〜28

 Book of Ethiopian Enuch(エチピア語エノク書)は偽典とされたが,あくまでEnuch をEunuch(宦官=去勢された高官)として位置づけている。第一エノク書,第二エノク書はキリスト教の正典であったが偽典とされた。それによってすべてダヴィデ崇拝に取って代わってしまった。ダヴィデの曽祖父ポアズは異邦人のモアブの女ルツからダヴィデの祖父オべテをもうけた。

マカベア書(聖書外典でアポクリファに収められている)のなかに伝えられている,あのおとなしい殉教者たち〜老教法学者エレアザルや七人の兄弟とその母〜がパリサイ派の精神的先祖であるが,このパリサイ・ファリサイ=ファリセー(Pharisees)というのは"分離する者"という意味であって,ラテン語系の表現に直せば"Seccessionists"とでも訳すべきか,彼らがみずから名のった名称である。このプロレタリアの"武装した力の人"がおさめた直接の物� �的成功が,それは,後世の人びとの目を眩惑した。イエスにもっとも近い弟子たちでさえ,かれらの師が自分の運命を預言するのを聞いてあいそをつかし,その預言が事実となるに及んですっかり打ちのめされてしまったほどである。(管理人注:今日残っているパリサイ・ファリサイ派の中でも敬虔主義者のエノク書,ソロモン詩篇,モーセ被昇天はいずれも旧約外典となったが特にエノク書が外典になったため聖書はダヴィデ崇拝となってしまったのは残念なことです)

 本物の十字軍。十字架は軍旗であり,キリストは総指揮官でもある。ローマ人への手紙6章23節「罪の支払う報酬は死である」と書き,2世紀の神学者テルトウリアヌスは軍隊用語に書き改めて,「職務怠慢の支払う給料は死である」とした。ローマ人への手紙6章23節には除隊のさいに,「金の賜金」をほうびとして与えられる。

 キリスト教の創始者は「戦争は万物の父である」といった弁証法の父ヘラクレイトスからプラトンの曽祖父クリティアスからプラトンへ到るまでの仕上はパウロによってなされた。つまり対立物の統一は弁証法の進化には欠かせないという理論である。これは大変怖い考え方ですが事実でしょう。つまり戦争とは双方に金を出し戦わせ誰かが必ず儲けるという� ��変の構図がある。

ストア派の指導権は使徒言行録18章にあるようにGallioでありローマ帝国のアカイア総督でもあり,パウロに対する告訴を却下した。その弟で,聖パウロと同じ時代のセネカに指導権は移った。セネカの哲学的著作の中にはパウロ書簡と同一のものが随所に出てくるそうだが確認はしていない。(パウロとセネカの往復書簡は偽書とされているが果たしてそうでしょうか?)

 クリティアスはプラトンの曽祖父であるが,詩人であり,人民を「説得する」ために, すなわち脅迫して服従させるために宗教を作り出した賢くもずるい男を讃える(管理人注:讃えられているのは弁証法の父ヘラクレイトスのこと)。クリティアスの見解では,宗教とは偉大で賢明な政治家の堂々たるうそに他ならない, と。(カール・ポパー)


THEY WERE TENT-MAKERS.パウロの協力者プリシラ(Priscilla)とアキラ(Aquila)はともにテント張りを仕事としていた。「イエス・キリストに結ばれてわたしの協力者となっている,プリシラとアキラによろしく。」ローマの信徒への手紙16章3節

 THE OLIVE TREE WHICH IS WILD BY NATURE.ローマの信徒への手紙11章17〜24節参照

 THEREFORE LET US KEEP THE FEAST.「正しい人の為に死ぬ者はほとんどいません。善い人の為に命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし,わたしたちがまだ罪人であったとき,キリストがわたしたちの為に死んでくださったことにより,神はわたしたちに対する愛を示されました。」ローマの信徒への手紙5章7〜8節

写真は過越祭りの日に「約束の地を目指してエジプトを脱出した」ことを念頭に辛いハーブずけした山羊の肉を急いで食べるパレスチナでのサマリア人家族。

 聖パウロは,カイサルとアウグストウスが帝国内部にもうけた植民地を飛び石として利用した。第一回伝道旅行ではピシディアのアンティオケとリュストラのローマ植民地,第二回伝道旅行ではToroas(トロアス・ダーネル海峡入り口にある海峡),Philippi(フィリッピはギリシャ東北部の町),コリントのローマ植民地にキリスト教の種を蒔いた。

 それだけではなく,パウロの活動は,植民地だけに限られていたわけではなく,たとえば,古くからのギリシャの都市エペソに二年間腰をすえていたし,パウロが18ヶ月間滞在したコリントは,使徒時代以後の教会の生涯において大きな役割を演じた。後は皆さんで個々に興味をお持ちなら,ローマの植民地がキリスト教の布教にいかに役立ったか研究される� �よいでしょう。あるいはその後の解説でやるかもしれません。

 ついでに言えば,かつてオロンティス川からティベル川まで進出した聖パウロは,パウロはもっと広い海つまりポルトガルの船に便乗し喜望峰を経て二度目のインド旅行を企て,また,さらに驚くべきことにマラッカ海峡を通って三度目のシナ旅行を企てた。(七世紀にネストリウス派が西安に根をおろした時を,キリスト教のシナ改宗の試みの第一回,13世紀および14世紀に西方キリスト教宣教師団が陸路派遣された時を第二回,16世紀に西方キリスト教宣教師団が海路派遣された時を第三回とみなす。)西安に根付いたネストリウス派のキリスト教は『景教』となり日本に入ってきた。



 西域における景教芸術の発見


 写真はパレスチナのアラブ人家族の割礼の儀式(Ceremony of circumcision)。「わたしは自分の望む善は行わず,望まない悪を行っている」ローマ7章19節。

 だから,心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり,いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは,割礼のない者と呼ばれていました。エフェソ2章11節。


なぜエジプト人は動物を崇拝しなかった

 タルソスのパウロは,シリア社会に加えられたヘレニズムの衝撃が,回避することのできない時代に,ユダヤ人社会に生まれた。その生涯の前半には,イエスに従うユダヤ人を迫害した。しかし,その後半には別な方向へかわり「そこにはギリシャ人とユダヤ人,割礼(CIRCUMCISION)と無割礼(UNCIRCUMCISION),未開の人,奴隷,自由人の差別のない(コロサイ人への手紙3章11節参照)」新しい体制を説いて回った。ダマスカスに向かう途中で突然,光に会った後,パウロは「血肉に相談もせず」(ガラテヤ人への手紙1章16節),アラビアの砂漠に入っていった。それから三年半後にはじめて� ��践的な行動に入る。すなわちエルサレムに上り,最初の使徒たちにあった。(ガラテヤ人への手紙1章15〜18節)  

 使徒言行録(行伝)17章16〜34節)に出てくるアテナイ人とパウロとの出会いの記述は参照されたし。(アテナイでの説教は不調に終わった)

ヘロデ王を癒したとされる死海の温泉。死海の北東にあるモアブにはZerka Ma'in(古代Callirrhoeの温泉として知られる)の温泉がある。ヘロデは重い病気にかかっていた時エリコの宮殿からここへ連れられてきた。

場所は最後の晩餐の行われたUpper Room。ルカ24章33〜36節参照。

 Upper Roomとは上の階のことではありませんよ

 Pentecostの奇跡に関しては使徒言行録2章1〜4節参照。


 また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトン(1サトンは12.8リットル)の粉に混ぜると,やがて全体が膨れる。ルカ13章20,21節

 (羊飼いと天使)その地方で羊飼いたちが野宿をしながら,夜通し羊の群れの番をしていた。すると,主の天使が近づき,主の栄光が周りを照らしたので,彼らは非常に恐れた。ルカ2章(イエスの誕生)参照。

 このパレスティナのアラブ人農民は確かに節度があるのでしょう。「年老いた男には,節制し,品位を保ち,分別があり,信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。」テトスへの手紙2章2節

屈強なPRAETORIAN・プラエトリアニに囲まれてもパウロは獄中で福音を広めた。フィリピの信徒への手紙1章12,13節参照。(わたしにとって,生きるとはキリストを生きること)

エルサレムの旧市外にある七つの門,特にJaffaとDamascus門(写真)は最もよく人が入る。「都の門は,一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。」ヨハネの黙示録21章25節


 ヨハネ誕生の地Ain Karim近くにあるCanaaniteのワイン搾り桶。「搾り桶は,都の外で踏まれた。すると,血が搾り桶から流れ出て,馬のくつわに届くほどになり,1600スタンディオン(1スタンディオンは185メートル)にわたって広がった。」ヨハネの黙示録14章20節(14章は144,000人の歌がタイトルでイルミナティが好きな数字です)

コリントではじめてパウロ主導でクリスチャンの会議がもたれたのはこの寺院の近くのLechaeum通りであった。。写真は七つのアポロ寺院の一つと思われる。

Acro-Corinthの頂上にはこの写真にはありませんがTemple of Aphroditeがある。


エルサレムのJaffa門近くには聖ヤコブアルメニア大聖堂がありそこにはヘロデ(Herod Agrippa)によってAD.44年に打ち首になったZebedeeの息子ヤコブを描いた壁画がある。

 「その頃,ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし,ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」使徒言行録12章1,2節

この門はGate of the EastあるいはBab-es-Shakiと呼ばれるキリストの時代からあるダマスカスで最も有名な場所でこの通りはStraightと呼ばれる


 これがそのStraightと呼ばれる通り。

そのSTRAIGHT通りにあるHOUSE OF JUDAすると,主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれている通りへ行き,ユダの家にいるサウロという名の,タルソス出身の者を訪ねよ。今,彼は祈っている。使徒言行録9章11節

ヨルダンのAMMANの劇場の廃墟跡。このグレコ・ローマ式劇場では着飾った蛮族の紳士淑女を前に,様々な催しがあったのであろう。

  祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり

  沙羅双樹の花の色,盛者必衰のことわりを

  あらわす。おごれる人も久しからず,只

  春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には

  ほろびぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)

  に同じ。   __平家物語より__


通信influeced BU第二次世界大戦はどうだった

  諸行無常・・この世に存在するすべてのものは
  関係することであり,現象としてあらわれる全て
  のものが流転し,一刻一刻変化しその全てが
  また真実である。この世には実体と呼ばれる
  ものはない。

  現実をあるがままに認め,願っても叶わないような
  ものは追い求めない。これが苦しみから救われる
  路。

  いかなる者もいつかは滅びる。あの泥のなかで
  栄養を吸収し美しい華を咲かせる蓮の華を見て
  ごらん。泥に汚されることなく転生し泥という
  煩悩のなかで綺麗な華という菩提花を咲かせる。
  これぞ涅槃なり。だから事実をありのままに
  受け止めなさい(如日知見)。

キリスト教会になったTemple of VESTA


 パウロ,ローマへ向かって船出する。使徒言行録27章,28章参照

The Island was called MELITA.


ローマへ行く途中の暴風に襲われたパウロののった船の様子を伝えるイラスト。使徒言行録27章13節〜。

 パウロ第二回目の旅行。使徒言行録18章参照

 パウロ第一回目の旅行。使徒言行録13,14章参照

キドロン渓谷やオリーブ山を一望するエルサレムの東の壁にあるのは言行録7章58〜60に登場するステファノのST.Stephen's Gateである。


Church of Giuseppi内にあった聖ペトロと聖パウロの閉じ込められたとされる最後の監獄。

A FELLOW CRAFTSMAN OF DEMETRIUS。写真はシリアの銀細工師。「その頃,この道のことでただならぬ騒動が起こった。そのいきさつは次の通りである。デメトリオという銀細工師が,アルテミスの神殿の模型を銀で造り,職人たちにかなり利益を得させていた.......使徒言行録19章24〜29節参照。

いわゆるダビデの墓はクリスチャンにはCoenaculumとして知られ,エルサレムのシオンの門(Zion Gate)の南にある。使徒言行録1章13,14節,2章1節参照。

 『最後の晩餐』に関してはコリントの使徒への手紙11章23〜26節参照。

Philip's Fountainと呼ばれる。ここでもENUCH はEUNUCHとなっている。使徒言行録8章26,36節参照。フィリポはエチオピアの女王カンダケの高官で.......(宦官とあるのはこの記事の最初で説明しましたが,)フィリポは宦官に洗礼を授けた,とさ。(38節)。ユダヤ系クリスチャンは全く読むに耐えない記事を書く。

DEVOUT MEN BURIED STEPHEN.しかし,信仰深い人々がステファンを葬り,彼のことを思って大変悲しんだ。使徒言行録8章2節。
写真はエリコ(Jericho)通りのそばにあるキリスト教徒殉教者の墓として知られるところに建つ聖ステファンのアルメニア教会。

 パウロDAMASCUSへの道。


ダマスカスの壁の上に作られた家々。ダマスカスは世界最古の町の一つでありパウロの回心(Conversion・言行録9章参照)とは密接に関係している。当時この町はARETASに一時的に属していた。ナバテア王の支配する地域はアラビアであった。

ALL THAT DWELT AT LYDDA.ペトロは方々を巡り歩き,リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。使徒言行録9章32節〜。

 DORCASの記念碑。ヤッファ(Jaffa)にタビタ(Tabita)〜訳して言えばドルカス,すなわち「かもしか」と呼ばれる婦人の弟子がいた。使徒言行録9章36節〜。右手の建物はタビタの墓よりむしろ彼女のギリシャ語名ドルカスの墓というのが一般的だ。

ダマスコのキリスト教徒地区の一角にHouse of ANANIASという地下の建物がある。.......ところで,ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が,「アナニア」と呼びかけると,アナニアは,「主よ,ここにおります」と言った。使徒言行録9章10節〜。

 パウロとその一行は,パフォス(PAPHOS)から船出してパンフィリア州のペルゲに来たが,ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで,ピシディア州のアンティオケに到着した。そして,安息日に会堂に入って席に着いた(イエスもパウロもユダヤ教の安息日を無視する記述が多くみられる)。使徒言行録13章13〜14節

写真はGate of the Valleyアラビア語ではBab-el-WAD。HE CAME DOWN ALSO TO......LYDDA.ペトロは方々を巡り歩き,リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。使徒言行録9章32節

 この窓からパウロは壁を伝って逃げた。この建物はダマスコの旧壁を再建したものでパウロの塔と呼ばれる。......そこで,サウロの弟子たちは,夜の間に彼を連れ出し,籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。使徒言行録9章25節

 ペトロはしばらくの間,ヤッファ(Jaffa)で皮なめし職人のシモンという人の家に滞在した。使徒言行録9章43節,10章9節。

 エルサレムからバルナバはアンティオケ経由でタルサルへ向かった。使徒言行録11,12章参照

 パウロに付き添った人々は,彼をアテネまで連れて行った。.......パウロはアテネで二人(注:シラスとテモテ)を待っている間に,この町のいたるところに偶像があるのを見て憤慨した。(注:モーゼの十戒の偶像崇拝を禁ずることの再確認)。使徒言行録17章15〜21節参照。

 パレスチナのヤッファ(Jaffa)は主要な港でありJoppaとも呼ばれていたがここで知られるのはいわゆる(なめし皮職人)シモンの家である。使徒言行録10章17節参照

 ステファノの殉教によってエルサレムでは迫害がひどくなりちりじりとなり,ある者はシリアのアンティオケ(Antioch)へ飛んだ。「このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので,教会はバルナバをアンティオケへ行くように派遣した。使徒言行録11章22節,26節参照

 この説明はだぶりますが........パウロはアテネで二人(注:シラスとテモテ)を待っている間に,この町の至る所に偶像(IDOLATRY)があるのを見て憤慨した。使徒言行録17章16節

 アクロポリス南東のゼウス神殿は紀元前二世紀にはおおむね完成していた。

 シリアの町アンティオケ世界第三位の広さを誇っていた。観光客に毒されることなくカメラマンがカメラを向けただけでこのように人が寄ってくる純朴さである。アンティオケの元々の住民はムスリムである。

多くの人に馴染みの深いAppian Way・アッピア街道

 They came to meet us as far as Appii forum and The three traverns:whom when Paul saw,he thanked God and took courage:

 ローマからは,兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて,アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て,神に感謝し,勇気づけられた。使徒言行録28章15節。

わたしたちはシラクサ(SYRACUSE)に寄港して三日間そこに滞在し,ここから海岸沿いに進み,レギオンについた。使徒言行録28章12,13節。


 この写真はシラクサ港の近くにある(古代ローマ)Augustus時代の円型競技場跡でひな壇がありアーチ型入り口の先はアリーナである。

 THE UNKNOWN GOD.道を歩きながら,あなたが拝むいろいろなものを見ていると,『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで,あなたがたが,知らずに拝んでいるもの,それをわたしはお知らせしましょう。使徒言行録17章23節

写真はパウロの時代紀元前62年に建てられたPonte Fabricio.


 女は誰でも祈ったり,預言したりする際に,頭にものをかぶらないなら,その頭を侮辱することになります。それは,髪の毛をそり落としたのと同じだからです。コリントへの信徒への手紙11章5節

写真は聖誕教会Basilica of Nativityのミサへ向けての服装は十字軍時代から変わらない。


 パウロの耳を癒したかも知れないパイプ?「笛であれ竪琴であれ,命のない楽器も,もしその音に変化がなければ,何を吹き,何を弾いているのか,どうして分かるでしょう。コリントの信徒への手紙14章7節

 上にも記事がありますがパウロが城壁づたいに逃れた籠はこのタイプの籠。コリントの信徒への手紙U:11章32,33節参照

 イースターを祝うギリシャ正教会の信徒たち。



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