《オリーヴ》 辻村節子11
インド細密画の小径(12)
ムガル帝国の細密画 その6
第4代皇帝ジャハンギールと細密画
辻村 節子
(イスラーム教神秘主義の聖者)を優先する
ムガル派 ビチトゥル作 1615−18
スミソニアン博物館フリーア・ギャラリー蔵
皇帝ジャハンギール(在位1569−1627)が、巨大な砂時計を玉座に、薄物をまとい、いくつもの首飾り、腕輪、指輪を着け、真珠のイアリングまでして皇帝のシンボルカラーである赤色のクッションを背に当てて、左向きに坐っている。その頭部(というより上半身)には、金色の太陽と銀色の月をかたどった大きな光背が付けられている。
画面左には4名の人物が縦並びに配されている。上からスーフィーのホセイン・チシュティー、オスマン帝国のスルターン、英国のジェイムズ?世、一番下はこの絵を描いた画家ビチトゥルの自画像とされている。
このほかに画面にはプットと天使が各2名 (?) 描かれている。プットとはイタリア語で幼児のことであるが、西洋絵画では古代ギリシアのエロス(クピド)をモチーフに、ルネッサンス以降盛んに登場する有翼裸体の幼児像のことである(小天使とも)。天空の左右に背中合せに浮ぶプットは左手の方は弦の切れた弓と折れた矢を手にしており、右手の方は両手で顔を覆って、それぞれ困惑、悲嘆の様子である。一方、砂時計の玉座の下部にいる赤と緑の着衣の天使は、時計のガラス面に何やら書き込み中で、赤い衣の方の左手には墨壷が見える。
ムガルのアレゴリー肖像画(*注)の第1号とされるこの絵は、写本の挿絵ではなく、皇帝ジャハンギールが、1615年以降作成のムラッカー(アルバム)のために、宮廷画家ビチトゥルに命じて描かせた1葉(枚)物(フォリオ)である。ムラッカーとはパッチワークを意味し、ティムール朝期には画家や書家の作品断片や図案、手本などを集めた貼り混ぜ様式の見本帳のようなものであったらしいが、17世紀以後のペルシア、トルコ、インドなどのイスラーム宮廷では、新旧の絵画や書道作品(カリグラフ)の逸品を集めた観賞用の豪華な作品集を指す。
*注 アレゴリー:寓意・寓意像。語源はギリシア語のアレゴリアで、「別の物を語る」の意。抽象的概念や思想を比喩的、具体的形象にかこつけて暗示する表現法をいうが、その際主に擬人化、偽動物化(狐によって狡猾を表す類)の手法をとること、その意義内容が多くは倫理的であり、内容と敬称との暗号が意図的で、しばしば因習的に固定されていることを特徴とする。伝統的な神話・伝説などに基づいた寓意画は数多く見られる。(新潮世界美術事典)
この絵はもちろん単なる皇帝の肖像画ではない。画面にはさまざまな要素が見える。4人の人物やプットや天使はもとより、砂時計の玉座というのも変った趣ではあるが、緑衣の天使の後部に置かれた、円盤を多頭の人物が支える不思議なデザインのブロンズ細工の踏台や、グロテスク文様という下半身が植物の人間や動物の頭などが花とともに複雑にデザインされた派手な配色の絨毯も怪しげである。
この絵の比喩、象徴の解釈を巡っては、いろいろの説がある。画面にはいくつかのペルシア文字の銘文があるので、先ずはその解釈からとりかかりたい。
ヌールウッディーン・ジャハンギール:大帝アクバルの息子
彼は神の恩寵を通して、その姿と精神において皇帝なり
彼の前に立つのは王たちのようであるが
彼の心はデルヴィーシュ(イスラーム神秘主義僧)の方にあ
るようだ
と書かれているそうで、この下2行がこの絵のタイトルとなっている。
また、天使が砂時計の表面に書いているのは「神は偉大なり 王よ、あなたの命が千年も続くように」と読め、踏み台の上面には「宮廷の奴隷・ビチトゥルの作品」という画家自身のサインがあるという。
なぜセントトマスは聖人になったのですか?
次に皇帝の前に縦並びに描かれている人物であるが、一番上の皇帝より1冊の本を差し出され、両手に布をかけて間接的に受け取ろうとしている白い鬚の老人は、当時のアジメールのムイヌッディーン・チシュティー大聖者廟の管長であったシェイフ・フサインとされる。アジメールのこの廟こそは、かつて、27歳になるまで世継ぎに恵まれなかったアクバル大帝が、スーフィー、サリーム・チシュティーの勧めでここに巡礼を繰り返し、1569年ついに待望の男児を授かり、この聖者に感謝をこめて皇子にサリームと名づけたという曰く付きの聖廟である(画面のジャハンギール帝はそれから50年近くを経たサリーム皇子の姿である)。それ以来ここはムガル朝の宗教的中心地の一つとなった。
その下のターバン姿はオスマン・トルコのスルターンとされているが、これはヨーロッパの絵画見本帖のようなものから引き写されたスルターンの一般概念的肖像だという。同時代ならオスマン朝第16代アフメトI世(1603−17)に当るが、資料がなかったのかもしれない。この画中の人物はジャハンギール帝に向けて両手を合せ、礼拝(尊敬?)のポーズをとっている。
その下は当時の英国王ジェイムズI世で、この姿は1615年にムガル朝への最初の英国大使として、ジャハンギールの宮廷に赴任したトマス・ロウ卿が持参した国王の肖像画からコピーされたらしい。元の絵は英王室お抱え画家ジョン・デ・クリッツの1604年頃の作品である。一人こちら向きなのはそのためである。
ジェイムズ?世像(原画は油彩)
J. D. クリッツ c. 1604
最下位に描かれている人物は着衣からヒンドゥーとわかるが、この絵の作者ビチトゥルの自画像で、手には象と2頭の馬を皇帝より贈られて深々と礼をする男の絵を持つ。これも彼自身の姿とされる。
上下の銘文からも、この絵は英国国王を当時のヨーロッパの代表とし、イスラームの大国オスマン・トルコのスルターンをイスラーム世界の代表とさせ、また、画家の姿をもってこの皇帝が愛してやまない絵画芸術の象徴とし、「ジャハンギールは俗界の王や芸術家よりも精神世界にいるイスラーム聖者を上位とみなす」というのが、この寓意画の第一義的解釈とされている。しかし皇帝自身はその聖者よりも一段と高い位置に坐っている! 精神世界云々よりも上から順にムガル皇帝にとっての文化的政治的重要度を表し、ムガル帝国の立場と栄光を具体化し、皇帝の権力を誇示、賛美する意図を持たせた絵画と言えよう。
一方、砂時計や踏台、プットや天使、大袈裟な光背など、ヨーロッパ伝来文化の登場の意味については、欧米の研究者、識者のあいだでさまざまな解説、解釈がおこなわれている。たとえば、目を覆っている天空のプットについて、
──皇帝の老いを悲しんでいるのか、
──光背のまばゆい輝きから目を防御しているのか、
──皇帝の威光に目をくらまされているのか、
──英国王の扱い方が彼らの世界(キリスト教?
ヨーロッパ?)を軽んじているので悲嘆にくれている
のか、等々。
砂時計の玉座についても、
──砂はほとんど落ちてしまっていて皇帝の死が近いことを
示しているのではないか、
──誰にも避けられない時の流れを表しているのではないか、
──時間をも支配する皇帝の威力を象徴しているのではない
か、等々。
大げさな光背、グロテスク模様の絨毯、踏台のデザインの扱いなどについても、同様に多くの解釈がある。
これらの事物の由来とジャハンギールやムガル帝国との関連を一つ一つ検討していくことは、大変興味深いがキリがない。このような絵画が生れたムガル派細密画事情について述べたい。
アクバルはインド各地から画家をリクルートしては、ペルシア画家に指導させて宮廷図書館を充実し、次々にプロジェクトを組織しては、挿絵入り写本の制作をおこなった。初期には、これらの作品にはムガル朝や皇帝自身の地位を正当化するために祖先の歴史や血統や誇りが反映されたり、記録や学習を目的としたり、王朝の意向の宣伝のためなど、インドにおける異民族のイスラーム帝国の統治者として、相互の理解と信頼を育成する使命を意識した政治的な意図を持っていた。
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しかし1590年頃までにインド大陸におけるムガル支配が確立し国家体制が整うと、もはや政治目的や王朝の力のシンボルとしての大図書館は不要となり、替って絵画工房自体の設備の充実を図るようになり、国家の安定と富は選りすぐりの資料や人材や原材料の調達を可能にした。
イエズス会の宣教師をはじめとするヨーロッパ人の来訪により西洋絵画と接する機会も増えると、その影響でムガル宮廷の絵画の好みはより趣味的になり、写本の生産は減じ、凝った一枚ものが好まれるようになる。絵画は少数優美となり、画家は個々の作品に集中し時間をかけた。
アクバル大帝が50年に及ぶ統治の後、1605年、63歳で亡くなると、皇子サリームがほぼ安定した広大な帝国を引き継いだ。すでに36歳であった。即位に際し、彼は自らの称号を「ジャハンギール」(世界の掌握者)とした。彼の備忘録『トゥズキ・ジャハンギーリー』は、彼が極めて人間的な独裁者であったことを示している。繊細で感動しやすいが、気まぐれ、残酷、好奇心が強い。何よりも絵画を愛好し、並外れた審美眼の持主であったようである。
彼はこれまでのムガル皇帝のように、戦場には出向かなかった。帝国の運営にはまるで興味がなく、各地での戦いはもっぱらクッラム皇子(後のシャー・ジャハーン帝)と将軍たちに任せた。若い頃より無類の好色家で、多くの妃と愛妾を持ちながら、1611年に42歳のとき、ペルシア人の子持ちの寡婦を皇妃に迎えた。「ヌール・ジャハーン」(世界の光)という称号を与えられたこの聡明な女性は、皇帝によく尽した。過度の飲酒と阿片愛用で心身を蝕まれていたジャハンギールは後半生、帝国の統治を彼女とその一族に委ねた。ヌール・ジャハーンは父と弟とともに施政の中枢となり、多くの仕事をこなしてジャハンギールが日々の生活と芸術の悦楽を堪能することを許した。
ジャハンギールはサリーム皇子時代の20代はじめにすでに何人かの画家を抱えていた。1600年にアーラハバードに宮廷を築いた時には自身のアトリエを開き、ヘラート出身の画家アカ・リザらにペルシア的要素の強いテーマを描かせている。絵画に関して父アクバルよりも高度の芸術的嗜好を持っていた彼は、壮大な王室写本プロジェクトには興味を示さず、質を重んじた。即位すると間もなく、自分好みの画風に対応できないような父の工房の画家を大量に解雇した。多くの画家が新しいパトロンを求めて地方のナワーブやラージプート諸侯のもとに散っていった。
より少数の個性的で表現力や技量の優れた画家に集中して注目したジャハンギール帝は、共同作業による作品よりも優れた一人の画家がすべてを仕上げる方法を好み、ムガル絵画を写本の挿絵から、単独で鑑賞する芸術作品に昇格させた。17世紀初めから、ムガル画家たちは、アクバル時代初期の精力的ではあるがあまり洗練されていない制作法から、柔らかな色調、穏やかなリズム、調和のとれた構成など、自然主義的な巧妙な画法を身に着け、人物や動物の性格づけ(内面性)まで表現できるようになっていった。備忘録に彼は、自身の絵画鑑定眼について、「ある作品が自分の前に置かれたら、新旧を問わず、ただちに描いた画家の名を言える」、「群像肖像画の人物の顔がそれぞれ別の画家によって描かれている場合、� �れが誰の仕事かすぐわかる」など、個々の画家の技量と表現力の特徴を判断する能力に自信を持っていたことを記している。この彼の鑑識眼がムガル絵画を新しい方向に導き、全盛時代を築いたと言える。
ジャハンギールの絵画の主題はしばしば奇妙である。曽祖父バーブル同様自然を愛し、動植物には文学的にも科学的にも情熱的な好奇心を持ち、観察し、備忘録に記入し、写生させた。常に珍奇な物を求めては、その分野の名手に写実描写させ、記録に残した。廷臣イナーヤット・カーンの死の直前のやつれきった姿を見て驚嘆し、直ちに写生させた話は有名である。
カーンはこの翌日亡くなったという
皇帝、皇族や廷臣たちの肖像画においても、アクバル時代の写本挿絵にはその容貌の特徴や功績が周囲の環境とともに描かれたが、ジャハンギールや次のシャー・ジャハーンの時代には、神格化された豪奢な皇帝や皇子の単独像や対面像、きわめて個性的な個人あるいはグループでの人物像が作成されるようになる。貴族や高官の姿もしばしば描かれたが、光背は皇帝と皇子のみに付けられた。まれに女性や子供の姿もあるが、高貴な女性の独立肖像画は見られない。
アブル・ハサン作 1616
典型的なムガル皇室肖像画のポーズ:
光背、豪華な着衣、真横向きの顔、斜め前向きの身体、
ほとんどの場合手には物を持ち(宝飾品、印璽、花、鷹など)、
野外に立つ。
ムガル宮廷には三度イエズス会の布教団が来ている。前回にも触れたが、アクバルの招きで、1580年に最初の使節団がファテプール・シクリの宮廷を訪れた時に、布教の手段としてフランドル派の画家やドイツ画家の宗教画を携えてきた。キリスト教絵画の主題とヨーロッパ絵画の異国情緒はアクバルを魅了し、工房の画家たちにこれらの油彩画や版画、挿絵などを模写させた。
ムガル画家たちはこの経験により、それまでペルシア絵画とインド伝統絵画を融合させた独自の画風で制作していた画面に、西洋画の技法(遠近法、明暗による立体表現、光の反射の描法など)を導入するようになる。かれらはまた、初めて見たキリスト教画の主題や珍しいモチーフや背景の景色などに新鮮な魅力を感じ、これらをインドやイランの画題であっても思いつくままに採り入れた。
1559年からの第三次布教団がラホールの宮廷に滞在した時には、サリーム皇子は父以上にキリスト教絵画の収集に夢中になり、父子間で獲得競争が激化したという。サリームは手に入れた絵はただちに自分の画家に模写させた。布教団はイエズス会本部に、皇帝と皇子のために大きく美麗な聖母マリアとキリスト降誕の絵を届けるよう要請している。サリームはまた、布教団に同行したポルトガルの画家を徴用してキリストやマリアの像を描かせたり、父の所有となった絵と同じものを作らせたという。これは彼の工房の画家たちにとっては、ヨーロッパ画家のテクニックを直接目の当りにする機会となり、特に配色の面で大いに影響を受けたという。
一方、1615年に英国王ジェイムズI世からの大使として、トマス・ロウがムガル宮廷に到着した時にも、外交手段として英国絵画を持参したが、ジャハンギールはこれらにも惹かれて、この後、ロウの任期中に次々と絵画を含むヨーロッパの品々を求め続けたという。これらのなかに、当時のバロック絵画の画家によるヨーロッパ君主の賛美肖像画(アレゴリー絵画)が含まれていて、ジャハンギールの好奇心をそそり、ムガル肖像画にこのアイディアを採用することになる。
このような複雑で肥沃な絵画環境に到達していたムガル宮廷アトリエで、ジャハンギールという絵画にクレイジーな皇帝が、自分の眼鏡にかなった画家に命じて、自身のアレゴリー肖像画を描かせた時に、冒頭に紹介したような複雑な象徴的寓意的な作品が生れたわけである。
画面に自画像を描いたこの絵の画家ビチトゥルについて調べてみた。
インドでは、アジャンターの石窟寺院に見られるようにグプタ朝(320〜)期に見事な絵画芸術が発展し、壁画や仏教やジャイナ教の経典写本挿絵や民画などの伝統が続くが、千年以上もの間、画家は無名の存在であった。ムガル宮廷において初めて、作品に名人、巨匠の画家の名が記され、知られるようになった。しかしその個人的履歴が明らかなものは少ない。
ビチトゥルもその一人で、生地も生歿年も不明、名前とこの自画像からヒンドゥーということがわかるのみである。40枚近い作品に残されたサインから、ジャハンギールとシャー・ジャハーンの時代に大いに活躍したことはわかる。特にシャー・ジャハーンの時代には皇帝の専属肖像画家であったらしい。1650年ごろまで皇帝や宮廷人の肖像画に彼のサインが見られることから、冒頭に掲げた絵(1615−18)は彼の最初期の作品とみなされている。しかし、このような比喩、寓意に富んだ絵を描くには、相応の知識と経験が必要と思われ、また画面に自画像を採り入れることが許されていることからも、すでに相当な実力の持主であったにちがいない。
多くの同時代のムガル画家と同様、彼はすでに西洋画の技法をほぼ完璧に取得していると同時に、ヨーロッパのモチーフや物品をほぼ正確に画面に取り込んでいる。ビチトゥルは他にも比喩的絵画、象徴的肖像画を何枚も残しているので、欧米のムガル絵画研究者は彼を、帝国の華麗と威信の優れたヴィジュアル記録者、賛美肖像画家として最高の評価を与えている。後期には聖者や僧の地味な (!) 肖像画も描いている。
冒頭の絵は皇帝がどの程度まで精密な指示を与えたのか興味深いが、中間にディレクター役を置かずに彼自身で構成し描き上げたとすれば、完璧な絵画技術は勿論であるが、これだけ多くの比喩的、象徴的要素を駆使して、ムガル帝国の君主の栄光を讃える一枚に仕上げた画家の頭脳と力量には感嘆させられる。できあがったアレゴリー肖像画第1号に皇帝も大いに満足したという。
ムガルの象徴的賛美肖像画は、他にもアブル・ハサン、ゴーヴァルダーン、ハシムなどにより描かれ、次のシャー・ジャハーン帝に引き継がれた。君主像は何といってもジャハンギール帝のものが数も多く、野心的かつ大袈裟である。ジャハンギールはこの頃には体力の衰弱が著しく,政治的実権は皇妃ヌール・ジャハーンの一族が握り、形だけの皇帝になっていた。こうした芸術の世界に逃避していた統治能力のない名前のみの皇帝が、当時のヨーロッパの王侯たちの賛美肖像画に出会ったことで、自己の君主としての役割を理想的に捉え、神格化した姿とした肖像画をこのように描かせることを思いついたのでもあろうか。
現存するこの種の絵画は、現在ほとんどが欧米のコレクションに所属されており、20世紀後半には、欧米のムガル絵画研究者のあいだでアレゴリー肖像画の研究発表が盛んにおこなわれた。ムガル宮廷と西洋文化の接触、ムガル絵画への西洋美術の導入という観点から、さまざまな研究、解釈がなされ、これらを比較検討するだけでも興味深いものがある。
ともかく、ジャハンギール帝の時代に彼の絵画へのあくなき関心が、同時代のヨーロッパ絵画の要素を浸透させて興味深い展開を見せ、ムガル絵画を写本挿絵から芸術作品へと昇格させ、全盛時代を築いたことは事実であろう。アクバル時代に引き続き、写本挿絵や公式行事の記録、宮廷シーンも描かれたが、多様な肖像画(公式、空想的あるいは写実的)、ヨーロッパ絵画のコピー、動物、植物の自然史的絵画、市井の記録画等々、多くの新しいジャンルの絵画が残された。
最後に数ある彼の時代の傑作のなかでも私の最も好きな一枚をご紹介したい。
アブル・ハサン(とマンスール?)筆
c.1610 35,5×22,5
肖像画の名手アブル・ハサンは共同制作も好んだ。
マンスールは動植物画の名手だった。 ともに当時の画壇の巨匠であった。
絵のサインがはっきりせず、共同制作か否かの解釈が決定していない。
金色の背景の中央に、紅葉し始めた鈴懸の大木、その幹や枝には愛らしいさまざまな動きを見せる栗鼠たち。根元では赤い帽子の男が上着の裾を帯に挟んで、裸足で木に取り付いてよじ登ろうとしている。いろいろの種類の鳥があちこちに思い思いのポーズで描かれ、岩に囲まれた緑の窪地には野鹿の家族。そこここに丁寧に描きこまれた灌木や花々。まさに自然の風景の一時を捉えたような見事な一枚である。いかにも自然の風物をもこよなく愛したジャハンギール好みの写実的絵画の傑作とされよう。私もその意味でこの絵に感激していた。
実はこの絵も、アレゴリー絵画であるという説がある。たとえば1981年に出版された英国の研究者の本には、博物学的に調査した結果、この種の栗鼠はヨーロッパや北アジアに分布し、ペルシアやインドには生息していない。ジャハンギール帝の時代に生きたまま産地から宮廷に持ち込まれたとは思えない。人物や木に比べて栗鼠が大きすぎるので写生図ではない。この人物は容貌、服装からヨーロッパ人と思われる(16世紀の画家P ・ブリューゲルの版画の人物に似ている)。このように素手で木に登って栗鼠を捕まえられるはずはない。アブル・ハサンは、アレゴリー肖像画にしばしばヨーロッパ絵画よりモチーフを採り込んでいる。といったことから、この絵もジャハンギールがヨーロッパ人から入手した絵画からモチーフを借用し構成したのであろう。たぶん、人物と栗鼠は別々の絵から……、とある。
では、この絵はどういう比喩を現しているのか? かの研究者によれば、この絵のメッセージの本質は「捉えどころなくあまり判然としない」、「人間のさもしい状態──邪悪な目的にかられた無駄な努力──に比べて、ここに自由で無垢な自然界がある」ということとされている。これがジャハンギール帝が意図したものなのか? 確かにこの絵には単なる自然描写以上の迫力が感じられるが……。いずれにしても、金色を背景にして樹木や栗鼠や鳥の生き生きした美しい描写と、大木の後の周囲にインド流に小さくまとめられた背景との構成もすばらしい一葉である。
ジャハンギールは大帝アクバルの築き上げた帝国の栄華を享受して、阿片や飲酒や色事に耽溺し、政務をおろそかにしてひたすら絵画の制作と収集にのめり込んだ無能な皇帝という印象が強い。しかし、私は、彼の置かれた時代、環境のなかで、その性格、才能が絵画芸術に向けられて、特にムガル絵画に西洋画の要素を採り込んだことで、ペルシア、インドの伝統の上にヨーロッパの伝統を交流させた文化的業績を評価したい。やや早い時代(16世紀末)に、フィレンツェをルネッサンス絵画の中心地としたロレンツォ・デ・メディチを思い起したりもする。
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