翔「ナチは"ユダヤ人はドイツ人の純潔を損ない社会を堕落させた"と宣伝したそうだね」。
山崎『ナチの政治家でありナチズムの理論家で、ニュルンベルク裁判で死刑になった アルフレート・ローゼンベルク(1893〜1946)は、著書「20世紀の神話」(1930)で、キリストは本来、ユダヤ人ではなく、アーリア人であると述べているよね。
【 アーリア人… アーリアン。サンスクリット語 アーリア(高貴な)からきた言葉。元来、中央アジアの遊牧民でイランに定住。さらにインドに侵入、インダス文明を滅ぼし、インドを支配してカースト制度を確立。
アーリア人が先住農耕民を征服する過程で、これを正当化するものとしてバラモン教やカースト制度が成立したとされる。
また一部が中央アジアからヨーロッパに移住し、現在のヨーロッパ語族〔ヨーロッパの人々が話すほとんど全ての言葉がこれに属している〕を話す人々の源流となった。ドイツ人はアーリア人の1つゲルマン民族。】
この本はナチズムの聖典と称され、日本を含む各国で翻訳されたそうだ。アーリア的伝統とユダヤ的伝統の闘争の歴史をそのまま世界史と位置づけ、アーリア人の優越性を述べ、イエス・キリストは本来アーリア人の聖な� �象徴であり、これをカトリック教会がユダヤ的なキリスト像にねじまげたとしているよ』。
翔「結局、ナチはイエスというユダヤ人を神とする一方、ホロコーストというユダヤ人大虐殺の愚行を犯したってことか…」。
翔「アーリア人って人種なの?」。
山崎「アーリア人(アーリアン)とは、本来 ヨーロッパ語族に属する言葉を話す人々をさすんだけど、言語と人種が混同され、アーリア人種についてヨーロッパでは論争がさかんに行われてきたというよね」。翔「これを政治的に利用したのがナチなんだね」。
山崎『ナチは、アーリアンの身体的特徴を長身、長頭、金髪などと限定し、ドイツを構成するゲルマン民族こそが、優秀なアーリアンであると主張した。そして、ユダヤ人をはじめとするセム族〔ヘブライ語やアラビア語などセム語系の言語を話す諸民族。アラビア人、エチオピア人、ユダヤ人など。なお セム語派は、アフロ・アジア語族の一派(アフロとはアフリカの意味)〕を排除したのさ。
ヒトラーの代表的な著作「わが闘争」では、歴史を人種間の生存闘争であり、強者が弱者を征服する過程であるという世界観(社会ダーウィニズム)を用いて、ユダヤ人排斥を正当化し、ユダヤ人を地上から抹殺することこそが、ドイツ民族の使命だと述べているよ』。
● 卍(万字)とハーケンクロイツインド諸宗教で、吉祥や美徳を象徴する印。仏教では、釈迦の胸や足裏にある瑞相(巻き毛の形)とされている。ヒンズー教では、左卍は和、右卍は力を意味するというように左と右とで違った意義付けをしている。
サンスクリット語では、スヴァスティカといい、中国には仏典を通して伝わり、鳩摩羅什(くまらじゅう)や玄奘はこれを「徳」で訳した。則天武后の693年に、吉祥萬徳の意味から、卍を萬と読むことが定められ、卍が漢字として使用されることになったという。万は、卍または卍から字の変化により誕生したという。
左卍と右卍があり、日本ではもっぱら左卍が用いられる。日本では、寺院の象徴として地図記号にも使用される。家紋にも用いられ、徳島藩主 蜂須賀氏の家紋が卍であったことから、阿波踊りでは、卍をあしらった浴衣がよく見られる。
ヒンドゥー教の最高神 ビシュヌの胸にある巻き毛が起源だとされるが実際にはもっと古く、古代のインド・ヨーロッパ語族の言葉を話す民族に、共通する宗教的シンボルであったようだ。かつては、東西問わず幸福のシンボルで、ヨーロッパでは十字架の1種となっている。
ナチスの「ハーケンクロイツ」〔鉤(かぎ)十字と訳す〕は、右鉤で、ナチ党の党旗に描かれ、1935〜45年にはドイツの国旗にも用いられた。ナチスは、卍をインド・ヨーロッパ語族の言語を話すアーリア人の象徴とした。
現在では、ほとんどのヨーロッパ諸国で右卍・左卍に関わらず、法律によって使用が禁止されている。特にドイツではハーケンクロイツの使用が完全に禁じられていて、学術的な目的以外で、公の場で使用すると逮捕される。
2007年には、卍� �禁止マークを重ねたり、卍がゴミ箱に突っ込まれているなどといったイラスト、反ナチ意識高揚のためのイラストでの使用が容認された。
翔「ヒトラー自身、ユダヤ人の血を引くという話もあるよね。手塚治虫の漫画『アドルフに告ぐ』ではそれがテーマとなっているけど…」。
山崎『ヒトラー自身そのことを気にして、顧問弁護士にあったハンス・フランク(後のポーランド総督)に調査を命じたようだ。ヒトラーの父、アロイス・ヒトラーは、私生児として生まれているんだけど、フランクの調査によると、
アロイス・ヒトラーは、母の奉公先であるフランケンベルガーという裕福なユダヤ人の家で、彼女が召使をしていたときに生まれたとされていたというよ。ヒトラーは自分の祖父がユダヤ人ではないかと懸念し、調� ��を中止させたそうだ。
ただ、ヒトラーの祖父がユダヤ人だった可能性はないとする戦後の調査報告もある。それによると、住民台帳に記載されているフランケンベルガー家は、地元バイエルン系のカトリック教徒であり、しかも当時は没落していたそうだ』。
翔「つまりは、ヒトラーの祖父が誰なのか、今も判っていないんだね」。
翔「ところで語族ってなに?」。山崎「語族とは、共通の祖語から派生したと考えられる諸言語のグループだね」。
翔「日本語は何語族に属するの?」。
山崎『日本語が何語族に属するかについては、色んな説があるよね。日本語族(日本語と琉球語を含む)の他、
【 琉球語… 奄美・沖縄・宮古、八重山各諸島で話されている諸方言の総称。琉球方言ともいう。原日本語から発展し、唯一日本語と同系の言語であることが証明されてはいるものの、口頭では互いに全く通じ合わないほどの違いがあり、日本語とは別の言語と見なす立場と、日本語内部の一方言と見なす立場とがある。】
ウラル・アルタイ語族(朝鮮語やモンゴル語と同じ)、マライ・ポリネシア語族(マライとはマレー半島のこと)、トラヴィタ語族(トラヴィタは南インドとスリランカの民族で、アーリア人とともにインドの2大主要民族。前2千年頃のアーリア人の南下まではインドの主たる住民であったという)などの説ある。また、ウラル・アルタイとマライ・ポリネシアが重なって成立したとか、ペルシア語や英語が起源だという説もあるよ うだね』。
翔「旧約聖書の創世記には、バベルの塔の話があるよね」。
山崎『ノアの洪水後、人類(ノアの子孫)は名声を高めるため、シナル〔メソポタミア(現在のイラク)の中心都市のバビロニアとされる〕に、レンガを用いて町をつくり、さらに天に達するほどの高い塔を建てようとした。
神は、これを人間の自己神化であり、驕りであると怒り、それまで1つであった言葉を、混乱させ〔バウル。ここからバベルの塔の名がきている〕、互いに通じないようにし、工事を失敗に終わらせた。神はそこから人々を全ての地域に散らせた。このためそれぞれの民族が、違う言葉を使うようになったという話だね』。
B、人種理論 U〔ノアの息子〕山崎「それから19世紀後半のヨーロッパ人類学では、ノアの3人の息子のセム、ハム、ヤペテから全人種が誕生したとされていたそうだ。セムからは、ユダヤ人・アラブ人・アジア人、ハムからは黒人(ネグロイド)、ヤテベからは白人(コーカソイド)が誕生したとされていたというよ」。
【 コーカソイド… ヨーロッパ、インド、西アジア、アラブ、北アフリカ、南北アメリカなどに分布。ネグロイド… 主にアフリカの民族の多くに分布。
モンゴロイド… 「モンゴル人のようなもの」という意。日本人、朝鮮人、韓国人を含むアジア・モンゴロイドの他、インドネシア・マレー人、ポリネシア人、南北アメリカに広く分布する人たち(先住民)が含まれる。
なお、アングロアメリカで混血が進まなかったのに対しラテンアメリカで混血が進んだのは、当初スペインからの移民は、9割が男性で、圧倒的に女性が不足していたことから、スペイン政府が、現地人との結婚を奨励したことによるという。
このため、コスタリカ、ウルグアイ、アルゼンチン、チリのように原住民が少なかった地域では、現在でも白人が多数派。逆に、グアテマラ、エクアドル、ペルー、ボリビアのように、原住民がたくさんいた地域でも、混血はあまり進まず、現在でも原住民が多数派を形成する。
ま� �、カリブ海諸国やブラジル北部などプランテーション農業がさかんな地域では、アフリカなどから大量の移民や奴隷などを受け入れた。】
翔「ノアって旧約聖書の創世記のノアの方舟(はこぶね)に登場する人でしょ」。山崎「ノアの方舟の話は、創世記の6〜9章にみられるよね」。
山崎『ノアの方舟とは以下のような話だね。地上に増えた人々が、神を敬わず、悪を行っているのを見て、神は洪水で滅ぼすことを考える。そこで正しい人であるノアに告げ、箱舟の建設を命じた。ノアと8人の家族は箱舟をつくり、またその間、大洪水が来ることを人々に知らせた。しかし、ノアの話に耳を傾ける者はいなかった。
ノアは箱舟を完成させると、家族とその妻子、全ての種類の動物のつがいを乗せた。洪水は40日続き、地� ��に生きていたものを滅ぼし尽くした。水は150日間、勢いを失わなかった。その後、箱舟はアララト山の上にたどり着いた。
【 アララト山… トルコ東部。イラン・アルメニアとの国境近くにある円錐形火山。標高5137m。古くからアルメニア人が多く居住してきた地域の中心にあり、アルメニア人は世界の母と仰ぐ。なお第一次大戦中、キリスト教徒であるアルメニア人は、オスマン帝国(イスラム教国)により、強制移住させられトルコ領内からはほとんどいなくなった。このとき、相当の数のアルメニア人が虐殺されているが、トルコ政府は虐殺の事実を否認していて、論争となっている。】
40日後、ノアはカラスを放ったが、とまるところがなく帰ってきた。さらに鳩を放したが、同じように戻ってきた。7日後、再び鳩を放すと、オリーブの葉をくわえて船に戻ってきた。
さらに7日たって鳩を放すと、鳩は戻ってこなかった。ノアは水が引いたことを知り 、家族と動物たちといっしょに箱舟を出た。神はノアとその息子たちを祝福し、今後、生き物を絶滅させてしまうような大洪水を起こさないと約束し、神はその契約の証として、空に虹をかけた。というものだね』。
翔「キリスト教なんかでは、ノアが人類の祖なの?」。山崎「アダムとイブに続く第2の人類の祖、人類再生の祖だね。ノアはアダムから10代目にあたり、アブラハム(ユダヤとアラブ民族の祖)はノアから10代目にあたる。ノアは洪水のあと350年生きて950歳で死んでいるから、方舟の話は600歳のときのこということになるね」。
翔「似たような話があったよね。ウルトラマンの怪獣と同じ名前のゴモラとかいう街の話で?」。
山崎『やはり旧約聖書の「創世記」にある ソドムとゴモラの話だね。アブラハムの甥のロトの一家は、ソドムという街に住み着くが、この街はゴモラとともに、住民の堕落のため、神より下された硫黄と火によって滅んでいる。
≪神の使い(天使)から伝えられた神の言葉に従い、神の裁きが下る前に街から逃げたロトと娘たちは救われた。しかしロトの妻は、欲望の街ソドムへの未練があったため、神の言葉を破って後ろをふり向いて、焼かれていく町を見てしまう。このため、塩の柱になってしまった。≫という話だ。
この話からソドムとゴモラは、悪徳・退廃の町、神の裁きを受ける町の代名詞になっているよ。また、男色(同性愛・肛門性交)や獣姦を意味する英語のソドミーは、ソドムに由来するそうだ。
ソドムとゴモラは地震により、現在の死海南端の湖底に 沈んだなんて説もあるよね』。
山崎『さて話を戻そう。創世記の第9章には以下のようにある。≪ノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが 彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。 セムとヤペテは着物を取って肩にかけ、うしろ向きに歩み寄り、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。
やがてノアは酔いがさめて、ハムが彼の裸を覗き見したのを知って「カナン(ハムの子)はのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」と述べた。≫ このことから、先に述べた人類学が成立し、白人の黒人支配が正当化されていたんだよ』。
翔『先進国は、こうしたジェノサイド〔民族浄化。殺戮ばかりでなく、強制的な同化政策による文化抹消、集団に対する断種手術の強要、また隔離政策など、特定の集団の抹消行為をいう〕の倫理観の誤りを認めて発展してきたということだね。
アメリカ映画の西部劇に登場するインディアンは、敵の頭の皮を剥ぐ野蛮な人種で、悪であると� �かれてきた。でも、近年、彼らの社会に存在する自然との共生や家族愛、助け合いの精神などが高く評価されてきているよね。調べてゆくと、未開の社会であっても、すぐれた秩序によって維持され、高い精神文化が存在していることも判ってきたというし』。
山崎「つまり科学的に未開であることが野蛮であり悪であるとするのは時代遅れの考えで、科学先進国がそのまま人権先進国ではないということだね」。
翔『アメリカ先住民をインディアン(インド人の意)と呼んだのは、新大陸を発見したコロンブスが、インドに到着したものだと信じて、彼らをインディオと呼んだことに始まることは有名だね。でも先住民にとってこんな失礼なことはない。
だから現在では、インディアンという言葉を避けて、ネーティブアメ� ��カン(ネーティブとはその土地で生まれた意)と呼ぶようになったよね。
「"コロンブスが新大陸を発見した"というのは間違えで、そこにはもともと原住民が存在したのだから"コロンブスが原住民と出会った"というのが正しい」と指摘されるようにもなってきているしね』。
山崎『同様に、アラスカ・カナダ北部・グリーンランド南岸、シベリア北東岸などに住む民族をエスキモーと呼んできた。エスキモーは、北米のアルゴンキン系インディアン(マクロ・アルゴンキン語族に属する言語を話す北アメリカ原住民の諸族)のアブナキ語やオジブア語で"生肉を食う人"という意味のエスキマンツィクに由来する言葉であるという。
最近では、彼らが、カナダではイヌイット、北アラスカではイヌピアック、西南アラスカ� ��はユピックなどと自称していることから、公的にもイヌイットと呼ぶようになってきているよね。イヌイット、イヌピアック、ユピックは、人間の意味だというよ』。
翔「よく"事実と真実は違う"・"正しい歴史観をもちなさい"と言われるけど…」。山崎「事実として残されている歴史の多くは、戦勝者側や文明世界からの歴史だ。真実は、西欧では歴史の英雄であっても植民地にされた国の人たちにとっては極悪の存在という場合もあるということだね」。
翔『すると、真実は、当時を生きた人々の心の中にだけに存在しているのだから「真実を知る」「正しい歴史観をもつ」とは、それを読み取ることと言えそうだね』。
C、シオニズム山崎『19世紀後半になると、ユダヤ人の間に「自分たちの国を建てよう」という意識が湧き上がる。彼らが建国に求めたのが、当時、オスマン帝国(イスラム教スンニ派の国家)の領土であった故郷のパレスチナだ。
その地の シオン山が、希望の象徴とされ、シオン山に戻る運動「シオニズム」が展開され、ユダヤ人を東ヨーロッパからパレスチナへと移住させた。
【 シオン山… エルサレムの南東にある丘。ダビデが祭壇を築いて以来、聖なる山となった。ダビデの墓も存在する。エルサレムの象徴で、シオンはエルサレムの雅名にもなっている】
シオニズムは「シオニズムの父」と崇められ「イスラエル国家建設の最大の功労者」と言われるオーストリアのユダヤ系ジャーナリスト テオドール・ヘルツル(1860〜1904)によって開始されたというよ。
「ユダヤ人の問題は同化ではなく、独自の国家を建設することでのみ解決される」と考えたヘルツルは、1896年に「ユダヤ人国家」を出版。97年には、彼の努力により、スイスのバーゼルで、第1回シオニスト会議が開催されている。この会議で「パレスチナに公法で認められる国家を建設する」ことが決議されたという。
ヘルツルは、世俗の人なので、それ以前の論者とは違い、ユダヤ人が安全に生活できれば、なにもパレスチナにこだわることはないと考えていたようだ。むしろ、アフリカのウガンダや、地中海のキプロス島を考えていたというよ。
ウガンダの計画は、運動の過程で、ロシアや東欧のシオニストに拒否されている。また� �ルツルは、ドイツ皇帝の中東支配の野心を利用しようと、皇帝に謁見し、ドイツの中東支配がいかに有益であるかを語るなどしたそうだ。
こうしたヘルツルの運動への賛同者は、彼の生前、また第一次大戦(1914〜18)以前は少数しかいなく「夢物語だ」とあざけりを受けたり、彼の世俗的な考えが「神への冒涜である」と批判されたり、「シオニズムは、反ユダヤ主義を刺激するものだ」と非難されたというよ。
ところが、1917年の「バルフォア宣言」が出され、また第一次大戦後に誕生したナチス政府のユダヤ人への虐殺が進むと、シオニズムは正当なものとして人々に受け入れられ、多くのユダヤ人をパレスチナに移住させていったというよね』。
ナイアガラの滝ニューヨークエリア内の水処理プラントの請負
【 バルフォア宣言… 第一次世界大戦中の1917年に、イギリスの外務大臣 アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダー ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド〔英国貴族ロスチャイルド家の第3代当主。動物学者。シオニスト〕に対して送った書簡で表明された、イギリス政府のシオニズム支持表明。パレスチナにおけるユダヤ人の居住地建設に賛意を示し、その支援を約束している。
これは、1915年に、イギリスの駐エジプト高等弁務官 ヘンリー・マクマホンが、メッカ太守〔当時、メッカはオスマン帝国下で半自治区的な存在にあった〕の フサイン・イブン・アリー〔 イスラム教U ワッハーブ派。カラーム 〕と結んだ フサイン=マクマホン協定(マクマホン宣言)と矛盾していると言われてきた。
マクマホン宣言では、オスマン帝国との戦争(第一次世界大戦)に協力することを条件に、オスマン帝国の配下にあったアラブ人の独立を承認するとしていて、フサイン・イブン・アリーは、これを受けて、ヒジャーズ王国を建国したという。
一方でパレスチナでの国家建設を目指すユダヤ人に支援を約束し、他方でアラブ人にも独立の承認を約束するというイギリス政府の矛盾した対応が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になったとされてきた。しかし実際には、マクマホン宣言には、アラブ人国家の範囲に、パレスチナは含まれていないため、この2つは矛盾していないという。】
山崎『それから、シオニズム運動や入植運動の中核を担 ったのが「キブツ」(ヘブライ語で集団の意)という農業共同体だ。キブツは、歴史上最大の共同体運動の1つという。
ただ、キブツ人口がこれまでイスラエル全体の7%を超えたことはないそうだ。この共同体は、シオニズムに共産主義思想が結合して生まれたものというよ。
個人所有を否定し財産を集団所有とする。子供が生まれると両親と分けられ、乳児院・保育所・幼稚園・小学校・高等学校において、集団的に育成される。などといったルールやシステムを持ったという。
最初のキブツは、帝政ロシアの迫害を逃れ、1909年に移住してきた若いユダヤ人男女の一群だそうだ。キブツの構成員はふつう300〜500人で、千人を超えることもあったらしい。キブツの数や人口の増加にともない、学校、図書館、� �療所、映画館、スポーツ施設などが建設されていったというよ』。
翔「現在も存続しているの?」。
山崎「今も約270のキブツ〔構成員は100〜千人。総人口10万人〕が存在しているそうだ。但し、本来、農業が中心であったけど、現在では、工業や観光業なんかも営み、かつては無報酬であった労働に、賃金も支払われていて、資本主義の社会とほとんど変わらなくなってきているというよね」。
D、パレスチナ紛争 T山崎『こうして、19世紀の終わりには、ユダヤ人国家建設のための国際機関も成立したわけだけど、一方、ロシアやドイツで反ユダヤ主義が起こる。
第一次大戦(1914〜18)が始まると、イギリスは、ドイツと結んでいたオスマン帝国領内で、アラブ人たちの反乱を支援し、ユダヤ人にも戦争への協力を要請した。
そして、ユダヤ人が連合国を支援した功績として「バルフォア宣言」(1917)によって、パレスチナにユダヤ人国家を建設することが承認されている。しかし、アラブ側は、アラブ人国家の独立に、パレスチナも含まれていると受け取っていた。
その後、第二次大戦(1939〜45)を経て、ようやく国連で、パレスチナをユダヤ地区とアラブ地区に分割する案が可決され、ユダヤ人側はこれを受け入 れ1948年に、イスラエル国(イスラエル共和国)が誕生する。
しかし、アラブ側は、自分たちの土地に、イスラエルが建国される分割案を拒否、アラブ側の攻撃によって「第一次中東戦争」(1948〜49)が勃発。イスラエルは、分割案で与えられた以上の地域を占領したんだ。
第一次中東戦争前後、イスラエル軍に占領された地域より、ヨルダンやレバノンやシリアなどの周辺諸国や、ヨルダン川西岸のガザ地区に逃れ、難民となったパレスチナ人は80万前後だという。
なお、ヨルダンは、第一中東戦争後、東エルサレムと、ヨルダン川西岸地域を得ている。
その後、イスラエルは、全てのユダヤ人にイスラエルへの移住と、市民権を保証する「帰還法」(1950)を制定、世界各地からユダヤ人を受け入れてい る。
【 帰還法… ユダヤ人を「ユダヤ人を母とする者またはユダヤ教徒」と定義。全てのユダヤ人にイスラエルへの移住権を与えている。】
さらに、第二次中東戦争(1956)、第三次中東戦争(1967)、第四次中東戦争(1973)と、大きなものだけで、5度の武力衝突が起きているよ。とくにイスラエル側の攻撃で開始された第三次中東戦争のさいは、イスラエルが、ヨルダン、エジプト、シリアなど隣接するアラブ諸国の一部を占領している。
ヨルダンからはエルサレムとヨルダン川西岸を、エジプトからはガザ地区(シナイ半島北東端)を含むシナイ半島全域を、シリアからはゴラン高原を奪い取っている。このうち、シナイ半島は、アメリカの仲介で成立したエジプトとの平和条約にもとづき82年に返還している。
ゴラン高原は、� �スラエルにとって軍事戦略上、また水源確保のために重要で、第四次中東戦争の初期にシリアが一部を奪い返したが、再度イスラエルに略奪されている。
エルサレムは、第一次中東戦争以降、イスラエルとヨルダンが東西に分割。岩のドーム(イスラム教)、嘆きの壁(ユダヤ教)、聖墳墓教会(キリスト教)のある旧市街地を含む東エルサレムがヨルダン領、西エルサレムがイスラエル領となったが、第三次中東戦争で、イスラエルが併合してしまっているよ。
80年には、この統一エルサレムを、イスラエルの永遠の首都とする「基本法エルサレム」を成立されているけど、国際的には承認されていない。
E、パレスチナ紛争 U〔暫定自治区〕
山崎『ガザ地区(シナイ半島北東端)は、パレスチナ分割案では、アラブ側の領土になることになっていたが、第一次中東戦争でエジプトが、第三次中東戦争でイスラエルが占領している。
ガザ地区の住民の大多数はパレスチナ人で、パレスチナ国家設立を要求してきたが、イスラエルは、ガザ地区への入植によりイスラエル化を図ってきたそうだ。
なお、第三次中東戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸、ガザ地区、シナイ半島、ゴラン高原につくった入植地(ユダヤ人居住区)は、約190にも達していたようだ。
94年には、オスロ(ノルウェーの首都)でイスラエルとパレスチナ解放機構との合意が成立し、ガザ地区はヨルダン川西岸とともに、パレスチナ暫定自治区となっているよ』。
翔「パレスチナ暫定自治区とは?」。
山崎『パレスチナ人(アラブ人)のパレスチナ暫定自治政府によって、管理される自治区だ。なんだけどヨルダン川西岸地区では、現在でもパレスチナ自治政府の支配権が及んでいる地域は半ばに満たず、残りはイスラエルの占領下にあるそうだ。
ガザでは98年に、ガサ国際空港が開港したけど、2001年にイスラエルの空爆で破壊されている。05年には、ガザのユダヤ人入植地が閉鎖され、イスラエル軍がガザから撤退したけど、その後もイスラエルは、ガザへの空爆やミサイル攻撃は続けているよね。
ガザ地区人口の約90万人が、難民キャンプで生活し、また平均年齢が15歳に達せず世界一若い地域になっているそうだ。またこのような劣悪な環境が、ハマスなどのイス� �ム過激派の温床になっていると言われているよ。
暫定自治地域は、94年に、ガザと、ヨルダン川西岸のエリコで始まり、翌年にはエリコ以外の西岸に自治が拡大されている。暫定自治は99年までの5年間とされていたんだけど、現在もパレスチナ自治政府による自治が行なわれている。パレスチナ側は何度か独立宣言を検討したが先送りとなったそうだ。
ヨルダン川西岸の自治区は、2003年に大半をイスラエル軍に再占領されているけど、イスラエルは「テロリストのイスラエルへの侵入を防ぐため」として、132の村落(26万人)を囲む全長690キロにも及ぶ分離の壁(アパルトヘイト・ウォール)の建設を2002年からはじめている。壁は場所によっては8mもの高さになるそうだよ。
壁建設の中止と徹去� �求める国連決議(2003)や、国際司法裁判所の勧告(2004)が出された後も、アメリカの保護のもとこれを無視して建設を続けているよね。(09年で6割が完成)』。
山崎「ちなみに、ガーゼ(ドイツ語。粗く織った柔らかくて薄い綿布)は、ガザからエジプト綿が積み出されたことに由来するそうだよ」。翔「そう聞くとパレスチナ紛争がなんか身近に感じて他人事ではないように思えてくるな-」。
F、パレスチナ紛争 U〔パレスチナ解放機構〕翔「アラブ側はどのように対抗してきたの?」。山崎「1960年代に、パレスチナ解放機構(PLO)を組織して、ゲリラ戦を展開してきたよね。また、石油資源に恵まれるアラブ諸国は、イスラエルを支持する国への石油の輸出を止めたり、値上げをして対抗してきたよ。これにより70年代、世界は2度のオイルショックを経験している」。
山崎『パレスチナ解放機構は、パレスチナ人を公的に代表する政治組織で、64年の第1回アラブ首脳会議で成立したアラブ連盟により設立されている。執行委員会(内閣)、パレスチナ民族評議会(国会)、その中間に位置する中央委員会などがあり、パレスチナ解放軍を持つそうだ。
はじめは、パレスチナの解放よりも、エジプトがパレスチナ人を管理する色� ��が濃かったらしいが、67年の第三次中東戦争で、アラブ諸国が大敗すると、パレスチナ人の力によるパレスチナ解放を目指すようになったそうだ。
但し、パレスチナ解放機構とは、多くのグループの合同体で、一枚岩ではないんだ。最大の組織が、ファタハ(パレスチナ民族解放運動)で、ファタハは、パレスチナ解放機構の執行委員会議長で、パレスチナ自治政府の初代大統領 ヤーセル・アラファート〔1929〜2004・93年にイスラエルとの歴史的な和平協定を果たしてパレスチナ暫定自治政府を建設。翌年ノーベル平和賞を受賞〕より設立されている。
他に、反主流派の最大で、共産革命によるパレスチナ解放を目指す急進派 パレスチナ解放人民戦線(アメリカ・EU・イスラエルなどはテロ組織に指定)なんかも参加している。現在、拠点は、ガザにある。
一方、パレスチナ解放機構のアラファト体制とは距離をおき、和平に対して断固反対し、自爆テロを行なってきたのが、ハマスと、イスラム聖戦という原理主義の組織だね。
ハマス〔イスラム抵抗運動の頭文字をとった略語。同時にハマス自体 熱狂を意味する〕は1987年末、ヨルダン川西岸、ガザではじまったインティファーダ(民衆蜂起・93年のオスロ合意で休息)をきっかけに、
ガザの ムスリム同胞団〔エジプトを中心にアラブ世界全体に広がるイスラム原理主義の組織。エジプトでは最大野党〕を母体に組織されている。政党でもある。
06年には、パレスチナ評議会選挙で圧勝。勝利の背景には、権力を独占してきたファタハの腐敗があったという。これによりハマス政権が誕生しているよ。
イスラム聖戦は、70年代末から80年代初めに、対イスラエル武力闘争を掲げて、ムスリム同胞団から分離した過激派だ』。
【 インティファーダ… 民衆蜂起。第一次は、ガザ地区でイスラエル人のトラックとパレスチナ人のバンが衝突事故を起こし、4人の死亡者が出たことがきっかけに起こっている。パレスチナの民衆は投石などを手段とした。
第二次は、イスラエルの右派政党リクードの シャロン党首・外相(のち首相)が、千名の武装した側近と共に、アル=アクサー・モスク〔かつてエルサレム神殿のあった聖域「ハラム・アッシャリーフ」(神殿の丘)にあるモスク。ハラム・アッシャリーフの中央には、岩のドームがある。アル=アクサー・モスクは聖域の南にある〕に入場したのがきっかけで起こっている。
パレスチナ側は、小火器、迫撃砲、ロケット弾を使用し、イスラエルで自爆テロを繰り返した。これに対しイスラエルは、戦車、爆撃機、ミサイル搭載ヘリコプターなど圧倒的な軍事力で対抗、また指導者層を次々に暗殺している。第二次インティファーダは現在も継続。】
G、エルサレム翔「エルサレムとは?」。山崎「パレスチナ地方の中心都市で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地だね。ユダヤ教では最大の聖地で、イスラム教では、メッカ、メディナに次ぐ聖地だよ。これらの聖地は、旧市街地と呼ばれる場所にあるそうだ」。
翔「エルサレムの意味は?」。山崎「ヘブライ語の イェルシャライムは、イール・シャローム(平和の町)を意味するという説と、ウル・シャレム〔シャレムの礎。シャレムは、セム系諸族の黄昏と美の女神〕の意味であるという説がある。アラビア語では、アル=クドス(聖地)、ラテン語では、ウンビリクス・ムンディ(世界の中心)と言うそうだ」。
山崎『かつて神殿のがあった場所は、イスラム教の聖地となっていて、彼らはここを「ハラム・アッシャリーフ」(神殿の丘)と呼んでいる。
ハラム・アッシャリーフの中央には「岩のドーム」〔ウマイヤ朝のカリフ アブドゥル・マリクにより692年に完成。現在のものは1345〜50年に再建〕と呼ばれるモスクがある。
岩のドームは、ムハンマドがここから一夜、天界を巡る旅に昇天したとか、アブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした場所であるとかいう「聖石」を囲むようにして建設されたモスクで、聖殿中央にこの石が祀られているそうだ。ユダヤ人はここを「根の岩」(世界の土台の岩の意)と呼んでいたらしい。
【 ミウラージュ(昇天)の奇跡… コーランには、神は天国へ至る梯子(はしご)の主で、ムハンマドを連れて、聖なる礼拝堂から、遠隔のモスクまで「夜の旅」(イスラー)をしたとある。聖なる礼拝堂とはもともとは天国を意味し、後世のハディース(イスラム伝承)では、エルサレム神殿に定められていたという。
後世のハディースによると、ムハンマドは、天使 ガブリエルに連れられ「夜の旅」(イスラー)をした。翼を持つ天馬 ブラークに乗り、メッカからエルサレムへ行き、そこから光の梯子を登り(ミウラージュ)、神の前にひれ伏したと伝える。
ハラム・アッシャリーフの南にある アル=アクサー・モスク〔銀のドーム。ウマイヤ朝時代の705〜09年にかけ、ワリード1世が建設。幾度も再建や改築、最初期につくられたモスクの1つだが、岩のドームと異なって創建当時の面影はほとんど残されていない〕は、ミウラージュの奇跡を記念して建てられたもの。アル=アクサー・モスクとは、遠隔モスクの意味。
ハラム・アッシャリーフの西には、ブラーク・モスク〔サラディーンのエルサレム奪還(1187年)のあとに建設されたという〕の遺跡がある。ブラーク・モスクは、天馬 ブラークをつないだ場所とされる。
ラジャブ月(イスラム暦の第7月)27日前夜が、ミウラージュの夜とされ、聖夜の1つとなっている。
なお、ミウラージュは、自我の滅却により、霊魂が高められたことを象徴するものとしても、神との接触・合一を目的とするイスラム神秘主義(スーフィズム)に影響を与えたとされる。】
ハラム・アッシャリーフを囲む東西南北の壁は、ヘロデ時代のものだそうだが、ユダヤ教徒たちには、西の壁には、第二神殿の遺構(昔の建築の残存物)があると信じられていて、これを「嘆きの壁」と呼んで信仰している。彼らは神殿の喪失を嘆き、再建を祈るという。
嘆きの壁は、長さ約50m、高さ約20mで、最上部まで45段の石が積まれていて、このうち下部の24段(17段は埋まっ� �いる)が、ヘロデ時代特有の切り石。上部は後代のものとされているよ。
地上部8〜11段は、ウマイヤ朝時代。12〜25段は、オスマン帝国時代の1866年にイギリスの実業家が追加。26〜28段は1967年に、エルサレムのイスラム法学者集団のリーダーにより追加されている。
ローマからの独立を求めた第二次ユダヤ戦争(132〜135)に敗れたことで、ユダヤ人のエルサレムへの立ち入りが禁止され、ユダヤ人は4世紀になってようやく年に1回〔アブ月(ユダヤ暦の第11月)9日〕、荒廃した神殿を訪れ、国の滅亡と神殿の喪失を嘆くことが許されている。
エルサレムがイスラム教徒に奪われると、神殿跡地にはモスク(イスラム教の礼拝堂)が建設され、ユダヤ教徒の信仰は、荒廃した神殿から、西の壁(� ��きの壁)に移ったという。
もちろんイスラム教徒にとっても、西の壁は、聖域であるハラム・アッシャリーフの西の壁で、彼らは「天馬の壁」と呼ぶ。壁の内側には、ブラーク・モスク跡〔ブラークをこの壁につないだともいう〕がある。
1929年8/15日、ユダヤ人の青年運動組織の数百名が、嘆きの壁の前に集結。「壁は我々のものだ」と叫び、イスラエルの国旗を掲げ、イスラエルの国歌を歌った。これに対して、アラブ人のデモ隊が結成。約一週間の間にパレスチナ各地で、アラブ人によるユダヤ人虐殺が起こっている。
これを「嘆きの壁事件」というんだけど、ユダヤ人は133人が殺害され、アラブ人は116人が殺されたという。ユダヤ人の大部分は、アラブ人による殺傷で、アラブ人の大部分は、イギリ スの植民地警察や植民地兵による殺傷だそうだ』。
翔「ユダヤ教徒って神に選ばれた民族というけど、むしろ哀れだな。エルサレムにはキリストが処刑された場所もあるんだよね」。
山崎『キリスト教の聖地として有名なのが、イエスが十字架にかけられたゴルゴタの丘跡に建てられたと信じられている「聖墳墓教会」〔335年に、ローマ皇帝 コンスタンティヌス大帝が建設。現在のものは大方、十字軍時代に再建、修復〕だよ。世界最古の王立の教会の1つというよね。
アメリカ東部のそれは何年ですか?
コンスタンティヌス大帝は、首都をローマからビザンティオンに移し、コンスタンティノープル〔ラテン語。ギリシア語では、コンスタンティノポリス〕とし、キリスト教を公認した人だ。〔キリスト教は、313年 コンスタンティヌス帝によって公認され、392年 テオドシウス帝のもとで国教となっている〕
この教会は、ゴルゴタの丘とイエスの墓を保護するために、大帝が建設したという。中央のドームには、イエスが埋葬され3日後に復活をしたとされる「石墓」があるというよ』。
H、エルサレムの歴史山崎『ローマ占領以後、エルサレムは衰退したが、ローマ帝国によりキリスト教が公認(313)、コンスタンティヌス帝により「聖墳墓教会」も建設。さらには国教(379)となって、キリスト教徒の巡礼者が増加する。
614年には、ササン朝ペルシア〔226〜651・ゾロアスター教を国教とした。ペルシアは現在のイラン〕に奪われ、その後、ローマが奪還するものの、637年に、アラブ人に奪われ、ウマイヤ朝カリフ アブドゥル・マリクにより「岩のドーム」(692)が建設されている。
これにより、エルサレムは、メッカ、メディナに次ぐイスラムの聖地となった。なお、アラブ人がエルサレムを支配するに至り、ユダヤ人も再び居住することとなったそうだ。
第一次十字軍(1096〜99)は、フランスの騎士を中心に結成され、99年には、エルサレムの占領に成功する。聖地に残った諸侯が、ロレーヌ公を宗主とし、アンティオキア(トルコ南部)からトリポリ(北アフリカのリビアの首都)を領土とする「エルサレム王国」を建国している。
〔十字軍は、イスラム教徒を討伐し、聖地エルサレムを奪還するための遠征軍で、1096年から13世紀後半まで8回にわたって行われた。〕
なお、この十字軍のエルサレム占領のときに� ��、シナゴーク(ユダヤ教の礼拝堂)において、多数のユダヤ人が焼き殺されているという。
1187年には、エジプトにアイユーブ朝を創始した サラディーン〔1137(また38)〜93〕がエルサレム王国を攻撃。十字軍の主力部隊を壊滅させ、これによりエルサレムは、約90年ぶりにイスラム教徒の手に戻っている。〔 イスラム教T カリフとウンマ ファーティマ朝 〕
サラディーンは十字軍との戦争を続ける間も、エルサレムへのキリスト教徒の来訪や居住を許した。このためエルサレムは、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒に開かれ、サラディーンは、その博愛主義から、ヨーロッパの文学にもしばしば登場するという。
1260年には、モンゴル軍が侵入し、エルサレムを破壊していたが、その後もアラブ人による支配が続き、1517年から第一次大戦(1914〜18)終了までは、オスマン帝国(イスラム教スンニ派)、その後、イギリスの占領が1948年まで続いているよね』。
翔『1947年には、国連総会でパレスチナをユダヤ地区とアラブ地区に分割する案が可決。これをうけ48年に、ユダヤ人は、テルアビブ(イスラエル西部の都市)で、イスラエル国(イスラエ ル共和国)独立を宣言。これを認めない周辺アラブ諸国と武力衝突に発展する。
分割案では、エルサレムは、アラブ人国家にも、ユダヤ人国家にも属さない特別区域を目指すことになっていたが、第一次中東戦争(1948〜49)以降、イスラエルとヨルダンが東西に分割。
岩のドーム(イスラム教)、嘆きの壁(ユダヤ教)、聖墳墓教会(キリスト教)のある旧市街地を含む東エルサレムがヨルダン領、西エルサレムがイスラエル領となったが、第三次中東戦争(1967)で、これをイスラエルが併合してしまったってことだね』。
I、聖 書翔「ユダヤ教の聖典って旧約聖書なの??」。
山崎『そうだね。なかでも「トーラー」(教え・律法の意味)が重視される。トーラーとは、旧約聖書の最初の5つの「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」のことで、「モーセ五書」「律法書」ともいう。
前13世紀頃のモーセの著作とされ「モーセ五書」と呼ばれてきたけど、実際には、いくつかの資料を編纂したもので、バビロン補囚〔前597〜前538〕からの帰還後、かなり経ってから書かれ、しかも創世記の第1章「天地創造」は、トーラーのうち一番最後に書かれたと考えられているよ。
また、トーラーとともに根本となるのが「タルムード」(研究の意味)だ。タルムードは、ユダヤ人の聖書に次ぐ精神的遺産で、多くの主要の教派がこれを 聖典と認めているというよ。ヘブライ語で書かれ、20巻、1万2千ページにも及ぶそうだ。
前6世紀〜3世紀のラビ(律法学者)たちがトーラーを解説した書を「ミシュナ」(反復・復唱の意)という。なお、神からモーセが授けられた律法のうち、文章化されずに口伝で伝えられたものがあり、ミシュナはこの口伝(口伝律法)を文章化したものを含んでいる。
このミシュナをさらに、3世紀〜6世紀のラビたちが解説した書を「ゲマラ」(完成の意)という。これらが4〜6世紀にかけてタルムードに編纂されたというよね。
なお、ミシュナに対して細かい解説が付される過程で、4世紀末頃にパレスチナで編纂された「エルサレム・タルムード」(パレスチナ・タルムード)と、6世紀頃までにバビロニアで編纂された「バビロニ ア・タルムード」という内容の全く異なる2つのタルムードが成立したそうだけど、現代においては、タルムードと言えばふつう後者をさすそうだ。
タルムードは、2千人以上のラビの解説を集めたもので、ユダヤ教徒の信仰と日常生活の規範となるものだ。なお、タルムードは、他民族に迫害され続けた反動で、独善的選民思想、排他的思想が強調されていて、それがよくキリスト教信者などから批判されるよ』。
翔「聖書は、英語でバイブルと言うね」。山崎「ギリシャ語のビブロス〔紙の原料となるカヤツリグサ科の多年草 パピルスの皮〕に由来するそうだ」。
翔『キリスト教では弟子たちがイエスの言行を記した「福音書」(ふくいんしょ)や、弟子たちの書簡類をまとめて「新約聖書」とし、「旧約聖書」とともに聖典として用いているよね』。
山崎『旧約聖書は、律法書5巻(モーセ五書)、預言書8巻〔「前の預言者の書」(ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記)と「後の預言者の書」(三大預言者の書と十二小預言書)がある。「後の預言者の書」の内容は、主に預言者が民族の危機を警告し、悔い改めて唯一神への信仰に帰りなさいというもの〕、諸書11巻に区分するよね。
律法書は前4世紀に、預言書は前3世紀までには正典となり、諸書はほぼ前2世紀には公認され、正式には1世紀末に正典化されたという。
旧約聖書が、ヘ� ��ライ語原典からギリシャ語に訳されたのが前3世紀頃とされ、これを「七十人訳聖書」という。これをもとに、ヒエロニムス〔340頃〜420・教父(カトリックの称号の1つ。2〜8世紀の神学者のうち、正統教義を唱えた精神的指導者)〕がラテン語に訳している。
【 七十人訳聖書… 名称は、モーセ五書のギリシャ語訳が、パレスチナから派遣された72人の長老により72日間でなされた伝説にもとづくとも、70は旧約聖書において権威の数で、権威的翻訳を意味するともいう。
七十人訳聖書への翻訳は、アレクサンドリア〔アレクサンドロス大王が建設。古代エジプトの首都で、ヘレニズム文化の中心地〕周辺のディアスポラのためになされたという。初期キリスト教団は、シナゴークを拠点とし、ディアスポラが伝道していったとされ、各地のシナゴークと、七十人訳聖書が、急速な伝播を可能にしたとされている。】
新約聖書は、全27巻からなり、紀元60年代から約100年かけて執筆・編纂されたという。原典はギリシア語で、ヒエロニムスにより、旧約聖書に先立ちラテン語訳されている。� �エロニムスがラテン語訳した旧約・新約をあわせて「ウルガタ版聖書」〔ウルガタは共通の意〕と称し、ローマカトリック教会の正典として、長きに亘り用いられてきたんだ。
中世にはローマ教会は、聖書を各国語に訳すことを認めなかったので、信徒は直接聖書を読むことができなかった。広く各国語に訳されるようになったのは、宗教改革以後というよ。
なかでも、ルターマルティン・ルター〔1483〜1546・ドイツの宗教改革者。プロテスタンティズムの先駆者。単独教団としては世界最多の信徒7千万を有するルター(ルーテル)派教会の祖〕が、ヘブライ語(旧約)、ギリシャ語(新約)の原典から、ドイツ語に訳した「ルター訳聖書」〔新約は1522年に完成。旧約は1534年に完成〕は有名だよね。但し、聖書� ��ドイツ語に訳したのはルターが初めてではないようだけど』。
翔「それまで信徒は、聖書を読めなかったけど、ルター以後、広く読まれるようになって、カトリックの嘘がバレちゃったんだね」。
山崎『プロテスタントの各教会は、自分たちが新教と呼ばれるのを否定する。聖書に書かれていない教義、例えば、教会を通してでなければ神の救いが受けられないとか、
マリアに原罪〔アダムとイブが神の言葉に反して智慧の実を食べたことにより、その子孫である全ての人間が生まれながらにしてもつ罪。マリアの無原罪はマリアを神聖化する教義〕がないとかいった教義は、カトリックが勝手に創造したもので、カトリックこそ新教であると断じるよ』。
翔「外典(がいてん)というのは?」。
山崎『ユダヤ教で� ��認めてないけど、キリスト教の旧約聖書に採用となったユダヤ教の文書だね。またこれを「旧約外典」と呼ぶのに対して、最終的に異端とされ正典として認められなかった古代教会の文書を「新約外典」と言うよ。「旧約偽典」は、正典にも外典にも属さないユダヤ教の文書だ』。
J、イエス時代のユダヤ教翔「イエスは、ユダヤ教徒なんでしょ」。山崎「そうだ。キリスト教は、処刑され死んだはずのイエスの復活を目のあたりにした弟子たちによって作られた宗教だよ。"イエスは人類の罪をあがなって死んだ救世主だ"とね」。
翔『イエスの「貧しき者は幸いなり」「汝の敵を愛せ」「取税人や遊女は汝(なんじ)らよりも先に神の国に入る」などの言葉は有名だよね。ユダヤ教では、律法を学ばない者は田舎者(地の民)、律法を学ぶことさえ許されない者を罪人(つみびと)と呼び、さらにハンセン病患者や不治の病にある者を悪魔に支配された者として差別されていたそうだね。
これに対してイエスは、神より見捨てられたとされる取税人や罪人とともに食事をし、彼らに神の救いを約束したり、怪我をした異教徒のサマリア人� ��介抱したというよね』。
山崎『さらにイエスは、ユダヤ教の指導者たちに対し「貧しいゆえに律法を守れない人たちを差別する心が罪である」「自分の敬虔(けいけん)さにおごり、敬虔であることを神に誇り、その報酬として救いを願う者は、神よりしりぞかれる」と批判したそうだ。
また、自分は「神の子」であると主張して被支配者層の支持を広げつつあった。こうことが、反ローマ運動の指導者に仕立て上げられ、十字架刑に処される結果になったようだね。
新約聖書において「イエスの敵」「偽善者」とされたのは、ユダヤ教の「パリサイ派」(ファリサイ派)の人たちだ。パリサイ派は、ユダヤ人でありながら律法を軽視するイエスを「大飯ぐらい、大酒飲み、取税人や罪人の仲間」と攻撃したとある。
このパリサイ派は、イエス時代� �ユダヤ教三大教派の1つで、名称は分離派を意味する。律法を守らない人たちから自分たちを分離する意味だそうだ。
しかし、サドカイ派〔サドカイは、前10世紀のソロモン時代の祭司 サドクの子孫の意とする説があるがはっきりしない〕が、モーセ五書(律法書)のみを正典とし、口伝律法の権威を認めず、聖書の字句に固執して、霊魂の不滅、死者の復活、天使の存在などを否定したのに対し、
パリサイ派は進歩派で、口伝律法の集成であるタルムードを重視し、律法を形骸化させないためにはつねに新しい解釈が必要であるとして、ダビデの家系のメシアの出現、死者の復活、最後の審判、神が天使や霊をもって人々の生活に介入するなどといったモーセ五書にはない教義を認めたそうだ。
結局、サドカイ派が移りゆく時代の中で、民衆の要求に応えられず消滅していったのに対し、パリサイ派の思想は、今日のユダヤ教正統派に継承されているという。このようなことから、新約聖書ではパリサイ派の排他的 な面が誇張されたとも言われているよ。
なお、イエスが属したのは、パリサイ派でもサドカイ派でもなく、エッセネ派(エッセネは、敬虔なる者・聖なる者の意)だと考えられている。エッセネ派は、世俗のけがれを嫌い、共同生活を営んだ教派だという。
前250年頃に、インドのアショーカ王が、派遣した伝道師によって伝えられた仏教の思想を採用したとも言われている。
【 アショーカ王… 在位、前268〜前232。マウリヤ王朝3代目。古代インドを統一。南はインド南端近く、西はアフガニスタンまでを治めた。全ての宗教を平等に保護。伝説によると、釈迦が没したときに建てられた8つの仏舍利塔の7つを開いて、仏舎利をさらに細かく分け、全インドに8万4千の仏塔を建立したという。
スリランカには、アショーカ王の王子であるマヒンダ、次いで王女であるサンガミッターにより、はじめて仏教が伝えられている。】
結婚と財産の私有をかたく禁じる集団と、一部認める集団があり、4千人の信徒がいたようだ。また、3年間の試験期間を経て入会が許されたという。
1947年から56年にかけて、死海北西のクムランという都市の近くにある洞窟(クムラン洞窟)の11ヶ所から、死海文書(ク� ��ラン文書)が発見されている。死海文書は、紀元前後をはさむ約2世紀にわたる文書で、約850巻あるそうだ。
このうち30%が旧約聖書の正典、25%が正典に含まれない外典の写本の断片で、旧約聖書の最古の写本。その他の30%が、聖書の注釈やエッセネ派をはじめとするいくつかのユダヤ教宗派の信条や規則や入会条件に関する文書の断片で、15%はまだ判明していないという。
これらのほとんどはヘブライ語で書かれたもので、わずかにアラム語(シリア地方やメソポタミアで使われていた言語)やギリシア語のものもあるというよ。
死海文書に、エッセネ派の戒律、思想、聖書の解釈を述べたものがあったことから、これらの文書を書きのこし隠したのは、クムラン住んでいたエッセネ派に属する共同体(ク� ��ラン教団)ではないかと言われてきた。〔但し、サドカイ派の共同体だという説もある。さらには、地球外生命体によって書かれたという話まである〕
クムラン教団の財産共有による共同生活、共同の食事、独身主義、そして、信徒が「終末の時期は差し迫っている」と信じていることが、初期キリスト教団のあり方と同じであることから、イエスさらに、イエスに洗礼をさずけたバプテスマのヨハネは、エッセネ派、またその一部を構成したクムラン教団の出身ではないかとされるんだ。
イエスはヨハネのよびかけに集まった1人で、のちにヨハネの思想を継承しつつ独自の道を歩みはじめたとも考えられているよね』。
K、超正統派ユダヤ教徒山崎『現在のユダヤ教は、大きく正統派、改革派、超正統派に分けられる。正統派や超正統派は、律法の字句に忠実な生活を心がけ、改革派は、現在の生活習慣に合わせても構わないというように柔軟な立場にある。アメリカでは改革派が主流派だそうだ。
超正統派の人々は、イスラエルで3万人いるという。エルサレムに集中し(エルサレム人口の30%)、特定のエリアに居住しているそうだ。生活は政府の援助でまかなわれ、仕事をもたず、日々トーラーを読み、祈りに没頭することに明け暮れている。兵役も免除されているという。また子供たちはイエシバ(神学校)で勉強しているというよ。
正統派の男性はキッパというおわん形の帽子を被るのを特徴としている。とくにシナゴークなど聖所に入るときは、原則としてキ ッパを被ることになっている。超正統派の男性は、夏も冬も黒のスーツに黒のシルクハット、髭を伸ばし、もみあげも切らないのが特徴だ。
超正統派のなかでも「ナトレイ・カルタ」(聖都の守護者の意)という一派の人たちは、現在のイスラエルを「シオニスト国家」と呼び、その解体を求めているよ』。
翔「なぜ彼らはイスラエル国家を認めないの?」。
山崎『イスラエルの再建はメシアの到来によってなされるべきであり、人為的に行うものではないと信じているからだそうだ。イスラエルは、このようにメシア信仰を無視し、しかも政教分離という近代国家の原則を採用した世俗国家であるためだと主張しているよね。
「ユダヤ人が全世界に追放されたのは、神の意志による。神の律法を守らなかったためである� ��苦難はメシア(救世主)が到来するまで続く」とか「苦難はメシア到来によってのみそれが終わる。シオニストまたその関係機関が、神を無視して世界中からユダヤ人たちに帰還を強要するのは、神を無視した重大の罪で、ユダヤ人を危険に陥れるものだ」とか、
また「神との"約束"とは、ユダヤ人やシオニストだけではなく、全人類に適用される。勝利とか救いという聖書の言葉は、霊的なものであり、政治的な敵を崩壊させるという意味ではない」と主張しているらしい』。
翔「どのくらいの人がいるの?」。山崎「5千人以下で、やはりエルサレムに集中しているそうだ。また、これとは別の「ナトレイ・カルタ」を称する小さな集団が、イスラエル、ロンドン、ニューヨークなどにもあるようだよ」。
L、� �ザール起源説山崎『イスラエルのユダヤ人社会は、東欧からの移住者(シオニスト)とその子孫の「アシュケナジム」と、イタリア、オランダ、旧オスマン帝国の領域(北アフリカ・西アジア)、南米からの移住者(大半がイスラエル建国後に移住)とその子孫の「セファルディム」という二大勢力により形成されいる。
ローザ·パークスは誰ですか?
セファルディム〔聖書に見られるセパラデという地名に由来。セパラデはイベリア半島と同一視される〕は、スファラディ、スペイン系ユダヤ人ともいい、離散(ディアスポラ)したユダヤ人のうち、中世にイベリア半島(スペイン、ポルトガル)に住んでいた人たちの子孫で、
キリスト教徒による「レコンキスタ」〔 イスラム教U レコンキスタ 〕で、最後のイスラム王朝が滅んだ(1492)後、スペインによる迫害で、イタリアなどの南ヨーロッパや、オスマン帝国の領域、および少数ながらオランダやイギリスに移住した人たちの子孫だそうだ。
これに対して、アシュケナジムは、ドイツ・東欧系ユダヤ人だね。つまり、離散したユダヤ人のうち、ドイツなど東欧に移住したユダヤ人で、アシュケナジムとは、本来はドイツに居住したイディッシュ語(ドイツ語の一方言)を話すユダヤ人をさす言葉だというよ。
【 イスラエルの公用語… 現在イスラエルでは英語と、現代ヘブライ語が半々くらいで使われている。公用語の1つである「現代ヘブライ語」は、リトアニア(ロシア帝国領)からパレスチナに移り住んだ エリエゼル・ベン・イェフダー(1858〜1922・ヘブライ語学者)が、ほとんど独力で完成させたもの。彼は、聖なる言葉でしかなかった古典ヘブライ語を、話し言葉として完成させた。古代の言葉を生きた日常語に復活させたのは歴史上唯一。】
ドイツでナチスが台頭すると、多くのユダヤ系ドイツ人が、アメリカや、イギリスの委任統治領であったパレスチナに移住していったとされる。また、ポーランドを含むヨーロッパのユダヤ系の人々は、ナチのホロコーストにより多くが死亡〔ポーランドでは600万人いたユダヤ人のうち300万人が殺害〕され、これらの結果、現代のアシュケナジムは、主にアメリカかイスラエルに住むそうだ。
なお、中東、コーカサス地方、エチオピア、インド、中央アジア、中国などに 住むユダヤ人は、ミズラヒム(ヘブライ語で東の意)と呼ぶよ。
イスラエルでは、アシュケナジムとセファルディムとの社会的・経済的格差が問題となっているよね。アシュケナジムは、シオニズム運動の推進役を務め、一般に教育、文化水準が高く、エリート層の人たちで、セファルディムは社会的地位は低く、失業率も高く、砂漠地方に住む場合が多いそうだ。但し、セファルディムは、出生率が高く発言力を増してきているというよ』。
翔「ハザール起源説とは?」。
山崎『イスラエルの指導的役割をになっているアシュケナジムが、パレスチナに住み、のちに離散したユダヤ人の子孫ではなく、ハザール人の子孫であるという説だ。
バザール人とは、トルコ系の遊牧民で、7世紀にカスピ海北岸から黒海北岸にか� ��ての草原地帯に、ハザール王国という国家を建設している。この王国は、強国となり、ササン朝ペルシア、ついでイスラム帝国(ウマイヤ朝)と激しい戦いを繰り返したが、その両国と敵対していたビザンチン帝国(東ローマ帝国)とは同盟関係にあったという。
1016年には、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア(最初のロシア人国家・9世紀後半に建国)の連合軍に敗北。それ以後13世紀半ばまで、領土は縮小したものの独立を保ち続けたされる。
ハザール王国がいつ滅んだかは記録にないそうだが、キエフ・ロシアを滅ぼし(1240)、ロシアの大部分を支配したモンゴル族のキプチャク・ハン国によって、この頃滅亡したのではないかと考えられているよ。
このハザール王国で特筆すべきは、9世紀初めに、国政政策によ り、ユダヤ教を国教と定め、世界史上類を見ないユダヤ人以外のユダヤ教国家になったことだ。730年に、ブラン王がユダヤ教に改宗する。この改宗は735年のウマイヤ朝の進撃に対して和睦を申し入れ、イスラム教に改宗したことで終わっている。
しかし、オバデア王の国政改革(799〜809年)で、再びユダヤ教に改宗している。但し、支配者層はユダヤ教を受けいれたが、住民はイスラム教徒が多かったと考えられているよね。
また、ユダヤ教を受容する王国中心部の貴族のグループと、王権が及ばない地方の貴族グループとの対立が生じ、835年頃、内乱となり、支配者側が勝利し、反乱者が皆殺しにされる事件もあったようだ。
結局、ハザール王国は、滅亡するまでユダヤ教の信仰を維持し続けたらしい� �。
翔「ハザールは、なぜユダヤ教を国教としたの?」。
山崎「イスラム帝国(イスラム教)、東ローマ帝国(キリスト教)という大国に隣接していたことから、両国から敵視されない宗教としてユダヤ教を選んだともいうけど定説はないそうだ」。
翔「アシュケナジムのハザール起源説については?」。
山崎『17世紀の東欧に、ユダヤ人が数10万人もいたことは、西方からの移民では説明できないなどということを根拠にして、アシュケナジムは、ハザール系ユダヤ教徒の子孫であると主張されたりする。
〔13世紀のクラフク公国(ポーランドの一部)のボレスワフ5世、14世紀のカジミェシュ3世(ポーランド王)、15世紀のヴィータウタス(リトアニア大公国の大公)によるユダヤ人保護政策によって、西欧から ポーランド王国やリトアニア大公国へユダヤ人が移住している〕
しかし、16世紀初頭のポーランドのユダヤ人の人口は数万で、それが17世紀半ばに数10万に増えたことを、ハザール人の移住で説明するには、ハザールの国家解体から17世紀まで、どのように数十万もの人口を維持し得たのかの説明ができないし、
遺伝学の立場からも、この説を否定する研究結果が出されているよね。それによると、パレスチナを起源とする世界各地のユダヤ系住民は、離散(ディアスポラ)により、長期に亘って異なった地域に居住にも関わらず、また互いに隔離されていたにも関わらず、遺伝子レベルでは、互いに大きな差異は示さなかったそうだ』。
M、ユダヤ暦と創世紀元翔「ユダヤ暦は太陰暦なの?」。
山崎『イスラム教の「ヒジュラ暦」が純粋な太陰暦なのに対し、日本の旧暦と同じ太陰太陽暦だね。
【 太陰太陽暦… 月の満ち欠けを基準とする太陰暦では、1ヶ月が29.5日しかないので、季節にずれが生じる。12ヶ月を1年とした場合、1年が354日となり、太陽暦の1年に比べて11日ほど短くなる。このため3年1回、閏月(うるうづき)をもうけてずれを解消するもの。月のはじめは新月の日にあたる。】
【 ユダヤ暦… 平年は12ヶ月、閏年は13ヶ月(閏月を第6月の次に置く)。平年は353、354、355日。閏年は383、384、385日のそれぞれ3通りがあり、どれになるかは過越の祭で決まる。過越の祭は、第7月(閏年では8月)のニサン月15日に行なうが、この日が月、水、金にあたらないように、元日(ティシュレ月1日)を祭から163日後と定めている。
2世紀頃までは、春分に最も近い新月の日を元日とする「春年」を用い、ニサン月が第1月であったが、それ以後、秋分を基準とする「秋年」に変わり、ティシュレ月が第1月となった。】
翔「ユダヤ暦の紀元は?」。山崎「創世紀元とか、宇宙創世紀元というよ。3世紀頃から用いられているそうだ。ラビの計算で、第二神殿が破壊されたのは、ヤーウェの世界創造� �3830年とされ、第二神殿の破壊は、西暦70年にあたるから、西暦元年は、創世紀元3760年にあたるよね。創世紀元のはじめを、西暦でいうと、前3761年10/7にあたるそうだ」。
翔『現在の宇宙は137億年前に、ビッグバンらよって誕生したというのが科学の定説でしょ。太陽系の星々が形成されたのが46億年前とされているよね。なのに創世紀元によると、ヤーウェによる世界の創造が、今から6千年前にも満たないことになるね…』。
【 太陽暦… 世界各地の暦の誕生は太陰暦だが、エジプトだけは太陽暦であった。古代エジプトの神官たちは、おおいぬ座のシリウスの動きから1年が365日であることを知り、1年が365日の暦を作っている。
このエジプト暦(シリウス暦)をもとに、前46年に、ユリウス・カエサルが、アレキサンドリアの天文学者 ソシゲネスの助言を得て制定したかのが「ユリウス暦」(前45年1/1日より実施)である。
ユリウス暦では4年に一度、閏年にし366日としている。このユリウス暦は、ローマ帝国の支配圏内で広く使用されたが、その他の地域では、太陰暦や太陽太陰暦が用いられていた。
〔 カエサル(前100〜前44)… 共和政ローマ期の政治家、軍人。英語では ジュリアス・シーザー。ガリア(フランス・ベルギー・スイス、およびオランダとドイツの一部)を平定。エジプトの王位継承戦に勝利し、クレオパトラを再び王位につけ、彼女との間に一子 カエサリオン(エジプトのプトレマイオス朝最後の王。カエサルの子ではないという説も)をもうけた。
ローマの内乱にも勝利、独裁者となるが暗殺された。ガリア属州総督解任および本国召還の命令に対して、内戦に突入することを決意し、軍を率いてルビコン川を渡ったときの言葉が「賽は投げられた」である。カエサルが暗殺されたとき、腹心の1人であったブルータスに言った「ブルータス、お前もか」も有名。〕
ユリウス暦では、4年に一度、閏日を入れるので1年は365.25日となる。しかし実際の太陽の運行はこれよりわずかに短いので、ユリウス暦を長く使っていると誤差が溜まっくる。
キリスト教は春分を基準に復活祭などの行事を計算するので、ユリウス暦では不便になってきた。そこで1582年に� ��ローマ教皇 グレゴリウス13世の命により委員会が発足。
当時の天文学者や数学者らによって制定されたのが、現在、世界各国で使用されている「グレゴリオ暦」である。ユリウス暦の基本は変えず、400年に3回、閏日を抜いたもの。
その他、過去に一部の国で使用されたおもしろい太陽暦には、
ソビエト連邦暦〔週は、黄・桃(バラ)・赤・紫(スミレ)・緑曜日の5日。国民全員に自分の曜日が割り当てられそれが休日となった。日曜日の休日を廃止することにより宗教の弱体化をはかった。1929〜40年まで採用〕、
フランス革命暦〔1年12ヶ月すべての月を30日とし、余った5日(閏年は6日)は年の終わりに置いて休日とした。さらに週は10日、1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒とすべて十進 法が使われた。1793年から1806年まで採用〕、
イラン暦・アフガン暦〔20世紀以降、イランとアフガニスタンで使用。、西暦と日付が完全に対応するが、紀元をムハンマドのヒジュラの年(622年)とする。ヒジュラ太陽暦という〕などがあり、
使用実績はないがおもしろいものには、
13の月の暦〔1ヶ月を28日、1年を13ヶ月とすることを基本としてた太陽暦。歴史上何度も暦法改革案として提案〕
世界暦〔原型は1835年頃にイタリアの修道士マルコ・マストロフィニが考案。1930年に世界暦協会が設立され、国連に働きかけるなどの世界暦運動が展開されたがその後消滅。12/31日から曜日を除くことで、曜日のある日が364日となる。364には7で割り切れるから毎年同じ日に同 じ曜日がくるというもの。1/1日は、毎年日曜からはじまる〕がある。】
N、安息日・割礼・カシュルート
翔「ユダヤ教の安息日は?」。
山崎『安息日とは、そもそも旧約聖書の「創世記」において、神が6日間の天地創造の仕事を完了し、7日目に休息したことに由来する。金曜日の日没から土曜日の夕方までの1日を安息日とし、日常の仕事を禁ずるものだね。捕囚期以後、この日はシナゴーグに集い、神を礼拝する日にもなっている。
「出エジプト記」に、安息日には、機械の操作や火を扱うことができないとあるため、ボタンを押して機械を動かすことも労働としてみなされ禁じられている。車の運転もむろん禁じられている。公共の交通機関も例外を除いて全てストップする。
厳格なユダヤ教 徒は、金曜日の日没前までに食事の支度をし、安息日の土曜日は、調理を行わないという。
キリスト教では、イエスの復活した日曜日を安息日とする宗派が多いよね。但し、イエスは、安息日には労働してはいけない、食事の支度をしてはいけないという掟をあえて破り「安息日は人のためにあるもので、安息日のためにあるものではない」と述べているようだ。
イスラム教では、ムハンマドがメッカを脱出した金曜日を安息日としている。金曜日にはモスクで合同礼拝が行われる。但し、金曜日が休日のイスラム社会もあれば、休日でないイスラム社会もあるそうだ』。
翔「割礼は?」。
山崎『割礼(かつれい)は、性器の一部を儀礼的に切除したり切開したりすることだよ。男子を対象とする場合が多く、男根の包皮� ��切除する。女子の場合はクリトリスや小陰唇を切除するそうだ。古くから未開社会、文明社会を問わず諸民族で行われてきた。現在でも、ユダヤ教徒やイスラム教徒は行っているよ。
ユダヤ教では神との契約のしるしとされ、男子が生後8日目に行うそうだ。
イスラム教では生後一週間から12歳くらいまでに行われるという。7歳くらいが適齢とされているらしい。
旧約聖書によると、アブラハムが99歳、その子 イシュマエル(アラブ民族の祖)が13歳のとき、一族の男性全てが割礼している。このとき、アブラハムがイシュマエルを割礼している。このようなことからアブラハムに習うことから割礼がなされるという。
コーランでは割礼について何もふれられていないので、イスラム法学者の間に、割礼を義務とする立場と慣行とする立場があるようだ。
昔は、床屋や占い師、施術に慣れた者が行っていたが、現在は外科医が行う事が多いそうだ。
ユダヤ教徒であったイエスも割礼を受けたとされるけど、パウロが「イエスの教えは律法を守ることではないから、割礼は必要ない」とし、心の割礼を唱え、割礼を精神化したことにより、キリスト教徒の割礼は消滅したとされるよね。
【 パウロ(?〜65?)… キリスト教をローマ帝国に布教するのに最大の功績を残したとされる人。熱心なパリサイ派のユダヤ教信徒で、キリスト教徒の迫害に加わったが、復活したイエスに接して回心したという。生涯を伝道にささげ、伝承によると、ローマ皇帝ネロによって捕らえられ処刑。彼の書簡は新約聖書の重要な一部。イエスによる贖罪の死と復活を中心とした神学を展開。】
割礼の意味としては、血と生命の供儀(未開社会)、忍耐力を示すもの、性器の神聖化など様々なようだけど、基本的には一種の成人式で、類似の行為として、入れ墨、皮膚に切り込みを入れて身体に模様を描く「瘢痕」、抜歯、小指の第1また第2関節からの切除、耳たぶや鼻に穴をあけたりすることなどがみられるそうだ』。
翔「ユダヤ教徒やイスラム教徒って食べ 物にもタブーが多いよね」。
山崎『旧約聖書には、食べていい動物といけない動物の規定があるんだ。そこでユダヤ教では、カシュルート(適正食品規定)が定められていてる。
旧約聖書に「鱗とヒレのない水中に棲む生物は一切食べてはならない。それは不浄のものものである」とあることから、
タコやイカ、エビやカニ、貝類、クジラやイルカ、ワニは食べはけない。
このためヨーロッパでは、タコやイカは「悪魔の魚」(デビルフィッシュ)などと言って嫌ってきた。
クジラもこの戒律によって食べることがなかった。そのことも日本の捕鯨禁止運動へつながっているとも言われている。
また「翼のある汚れた生物」として、ワシやタカなどの猛禽類、カラス、ダチョウ、フクロウ、カモメ、ハクチョウなどの鳥、虫〔イナゴとイナムシ(バッタ類?)は除く〕は食べてはいけない。
足にかぎづめのある生物(ネコ、犬、オオカミなど)、地を這う生物も不浄とされ、食べてはけないそうだ。
それから、ウシ、ヒツジ、ヤギ、シカなどひづめが割れていて、反芻(はんすう)する動物は、野生であれ、家畜であれ食べていいことになっているけど、
ひずめが割れていても反芻しないブタは不浄とされ食べていけないとされている。〔但しブタは原則的に禁止だが、イスラム教ほど厳しくない〕
ラクダはウシやヒツジと同じ偶蹄目で、反芻するけど、見た目でひずめが分かれているように見えない ためダメなんだそうだ。ウサギも反芻しているように見えるけどひずめが分かれてないのでダメらしい。
〔 反芻類の胃はふつう4つに分かれていて、飲み込んだ食べ物を、第1胃、第1胃に蓄えると、そこに共生するバクテリアによりセルロース(繊維素。植物の細胞壁の主成分)が分解される。再び口に戻し、噛み下すと、第3胃、第4胃に入り消化される。〕
それに「子山羊をその母の乳で煮てはならない」という聖書の言葉から、肉とミルクなど乳製品を同時にとることもタブーだ。
また動物を食べるときも、血と一緒に食べる者はけがれているとされるよ。血を食べるは肉食獣と同じ行為とされている』。
翔「なにを根拠にしているの?」。
山崎「家畜の血は神のもので、野生動物の血は自然のもので、血を食べるのは、神に属するものや自然の生命力を奪う行為だとかいうよね。このため、祭壇や大地に血を注いでか� ��はじめて肉を食べてよいとされているそうだ。血を神や自然にかえさないと生殖や生命力が枯渇するとされているみたいだな」。
翔「イスラム教でもブタは食べちゃいけないよね」。
山崎『イスラム教では、ブタを食べることが最大のタブーだ。但し、ヒツジ、ヤギ、ウシ、鶏の肉は好んで食べるという。
また「アラーの御名においてアラーは偉大なり」と唱えつつ、頸動脈とのどを切開し、血を出して絶命させたものだけが正式に屠殺された肉と認められている。
イスラム教国で売られる肉の袋にはハラルマークが印刷されている。ハラルとはイスラムの教えにかなったものの意味で、衛生上の検査もなされたものらしい。
絞殺死、撲殺死、転落死、刺殺死の動物もタブー。また、異なる宗派の者が殺した肉は食べないそうだ。魚についてはコーランに細かい規定はないが習慣的に鱗のあるものしか食べないというよ』。
翔「ムスリム(イスラム教徒)の禁酒も有名だよね」。
山崎『コーランには「神を忘れさせ、礼拝を怠らせ信仰の大きな妨げになるから、酔わせるものを摂ってはならない」と書かれているので、酔わせるもの=酒・煙草・麻薬・賭博・買春はタブーだ』。
翔『飲む・打つ・買うは、酔わせるものとして全て禁止なのに、宗教に熱狂・陶酔してしまっているのだからおかしなものだね』。
山崎「それから犬を不浄みなし、犬の唾液が体についたら七回洗うように決められている� ��しい」。
翔「ヒンズー教は?」。
山崎『聖職者は肉や魚を食べないようだね。採取するときに虫を殺す可能性があるとして根菜類も食べない者もいるそうだ。高いカーストの者ほど肉食をさけ、菜食主義を守る傾向にあるとされるよ。
とくにウシの屠殺は神殺しにつながるとして禁じている。これは、最高神シバの乗り物が、ナンディといわれる牝牛であることから、ウシをシバ神のシンボルとしてみなすこと。また乳製品の供給者である牛を母親とみなすことからだと言われている。
それから、インド南部では米が主食で、北部ではナンなどのパンが主食なんだけど、神の御手は右手とされていて、左手は不浄として食事のときは使わないよね』。
翔「仏教ではどうかな?」。
山崎『肉食はタブーに思わ� �ているけど、本来は、托鉢によってもらいうけたものは拒否できないことになっているそうだ。肉も同様とされている。但し、仏教では殺生(せっしょう)を禁じているから、自分のために殺されたと知った肉は断ったというよ。
小乗教が伝わったスリランカや東南アジア諸国の仏教徒は、今もこの習俗を伝えているそうだ。これに対して、中国や日本といった大乗仏教の国では、いつしか僧侶の肉食をタブーとするようになったとされるよ』。
〔 付録 肉食禁忌 〕
O、カバラ T〔ユダヤ教神秘主義〕
山崎『カバラ(カッパーラー)とは「伝承」を意味するという。ユダヤ教神秘主義だ。但し、カバラは、神との合一や接触というよりも、神の本質や宇宙の神秘を認識することを目的としているようだね。〔 イスラム教U スーフィズム 〕
伝説によると、アブラハムが、メルキセデク〔聖書に出てくる族長時代の祭司的王。神話的な理想の王〕から、天界の秘密を継承されたのが、カバラの起源だという。
また、モーセは、神の啓示をトーラーに記したが、どうしても文字にできない部分は、口伝により後世に伝えた。これがカバラの起源だともいうよね』。
ルナ「ユダヤ教における神秘主義はいつ頃から存在するの?」。
山崎『バビロニア・タルムードが編纂された6世紀頃には存在したようだよ。最古のカバラは、メルカバー〔「聖なる神の玉座」とか「神の戦車」と訳す〕といって、非常に抽象的な内容のエゼキエルの書を根拠に、エゼキエルの体験を追体験するもののようだ。
具体的には、瞑想状態となり、神の戦車に乗り込み、天使とと� �に神の玉座に達し、神に直接接して仕えるそうだ。
カバラの根本経典とされる「セーフェル・イェツィーラ」(形成の書)は、アブラハムが直接天使より伝授されたものとされるけど、成立は3〜6世紀だと考えられている。
この書には「生命の樹」(セフィロトの樹)と称する仏教でいう曼荼羅みたいなものが示され、10個のセフィラ(球)と、それを結ぶ22のパス(小径)が明かされている。
但し、一般には、中世ヨーロッパで発展したユダヤ教神秘主義をカバラと呼ぶよね。ユダヤ教神秘思想が「カバラ」という呼称で統一されるようになったのは、歴史的には中世に至ってからだそうだ。
12世紀に至り、北スペインやフランス南東部のプロヴァンス地方にカバラの秘密について語る者が現れ、以後、ヨーロッパ世界 に急速に広まっていったという。
この時期、カバリスト(カバラの実践者)たちは「創世記」や「出エジプト記」などの文字を、数字に変換したり、並べ換えるなどにして、表面的な言葉の奥に隠された真の意味を探りだすことに没頭したとされ、カバラ奥義書が、数多く執筆・編纂されていったそうだ。
また「生命の樹」の解釈を通じて、人類の過去・現在・未来の諸相を探求したり、メシア(救世主)出現の年代を計算することに情熱を傾けたそうだ。
「セーフェル・イェツィーラ」に、12世紀〜13世紀に成立した「バヒルの書」(光明の書)と「ゾーハル」(光輝の書)を加えて、カバラの三大経典とされるが、このうちとくに、ゾーハルに集約されたカバラ哲学を中核として、ユダヤ教の神秘思想は展開していったとされ� �よ。
「ゾーハル」は、13世紀のスペインのラビ モーセス・デ・レオン(1250〜1305)によって著されたトーラーの解説書で、生命の樹の10のセフィラ、原人アダム・カドモン(最初の人間アダム以前の存在)、様々な天使、多くの天国、宇宙創造の秘密、悪の起源などが書かれているそうだ。
中世ドイツのカバラは、神のガボード(栄光)を見る神秘体験が重視され、この体験は、祈祷、献身、瞑想、禁欲につとめ、魂が高められることで成就できるとされていたというよ。
南フランスやスペインのカバラ哲学は「生命の樹」に集約される。それによると1から10までのセフィラ〔王冠、知恵、理解、慈悲、公正、美、勝利、栄光、基盤、王国〕は、唯一神ヤーウェの多様な相(姿)、属性を意味し、
至高の「王冠」(ケテル)は神の最初の現実世界への顕現であり、最下 の「王国」(マルクト)は最後の顕現で物質世界を意味するという。
あるいは、セフィラは、ヤーウェの創造で「生命の樹」は神の創造の段階を描いたものだともいうよ。
カバラ修行者は、この10個のセフィラを通して神を把握できるそうだ。生命の樹という一種の曼荼羅を観想し、生命の樹にのっとって、ケテルからマルクトを自在に行き来することで、宇宙と人間の全ての秘密に通じることができるというよ。
なお、生命の樹は、エデンの園の中央に植えられた木で、ヤーウェが、アダムとイブを、天上の楽園 エデンから追放したのは、知恵の樹の実を食べた人間が、生命の樹の実も食べてしまうのではと恐れたためだという。
ユダヤの伝承では、知恵の樹の実と、生命の樹の実とをともに手に入れると、神と同様な存在になるとされているそうだ。
生命の樹は、近代の西洋魔術の集団〔霊を呼び出す「召還」・占い・幽体離脱・瞑想などを行なう〕に取り入れられ、タロット占いと結びつけたりもしたという。
また、カバラでは、ヘブライ語アルファベットにはそれぞれ数値があり、アルファベットを並べた単語や文書にも一定の数値があるとし、ある単語や文章を、同じ数値の別な単語や文章に置き換えるなどの文字変換法(ゲマトリア)を駆使し、旧約聖書の隠された深い意味を探ったり、
いくつかの単語の頭文字をとった� ��、単語を真ん中で折り返すように並べるなどして、新しい文字を作るようなこともなされているようだよ』。
P、カバラ U〔サバタイ・ツヴィ〕
翔「カバラは、メシア運動とも結びついたんでしょ」。
山崎『16世紀には イツハク・ルリア・アシュケナジ(1534〜72・エルサレム出身のラビ、カバリスト)が出現し、後世に大きな影響を与える「ルリア神学」を唱える。
彼の神学は「世界は、創造の始まりから混在していた悪によって、完成を妨害されてきた。ユダヤ人こそ、悪から世界を救い、未完成の天地創造を完成させるための使命を帯びた選民である。サタンはユダヤ人を徹底して迫害し、メシアの到来を妨害して、神の創造が未完成のままに留まるように活動している。地上の暗黒は、絶頂に達していて、メシア到来の機は熟している」というものだそうだ。
カバラでは、地上の悪が絶頂に達したとき、天国に置かれているメシアの魂が、地上に人の子として現れ、全ユダヤ人を救済するといったメシア思想があるというよね。
� �の死後半世紀ほど経つと「ルナア神学」は、カバラを代表する思想となり、1665年には、サバタイ・ツヴィ(1626〜76・サバタイ派の祖)により、ユダヤ教最大のメシア運動が起こる。
サバタイ・ツヴィは、トルコのスミルナ(現イズミール)出身で、カバラに傾倒、自分が「救世主である」と自覚する。これを「自分はエリアの再来である」と主張した 若きカバラ学者(ラビ)で預言者の アブラハム・ナタン(ガザのナタン)が支持したことで、彼は1665年、聖地エルサレムで「自分こそメシアである」と宣言。2人の兄弟をユダヤとイスラエルの王に任命して、自分は「地の王の中の王」を名乗ったそうだよ。
【 エリア… 旧約聖書の列王記に登場する預言者。北イスラエル王国7代目王 アハブ(在位・前869〜850。)は、シリアの王女 イゼベルを妻に迎え、イゼベルはシリアのバアル(嵐と慈雨の神)崇拝をイスラエルに導入した。
エリヤが、サマリヤ(北イスラエルの首都)を去りヨルダン川東岸に住んだ3年間、王国には雨が降らず、人々は飢餓に苦しんでいた。彼は王国に戻ると、アハブに求め、バアルの預言者450人、アシラの預言者400人と対決した。
バアルの預言者とエリアは、カルメル山(イスラエルのハイファ地区にある525mの山)に祭壇を築き、それぞれの神に祈願した。その結果、エリアだけが奇跡をなして勝利したので、エリアはバアルの預言者を捕らえてみな殺しにした。のちに雨が降った。これに怒ったイセベルが、エリアを殺そうとしたので身を隠した。
イゼベルは、アハブの死後も、8代目アハズヤ、9代目ヨラム(8代目の 弟)のときも権力を握った。〔旧約聖書にはイゼベルが母であるとの明言はない〕
しかし、6代目にはじまるオムリ王朝を、反乱により倒し、イエフ王朝を開いたイエフにより、ヨラムとともに殺害されている。イゼベルは城門から突き落とされ、遺体は犬の餌にされた。
これは、イゼベルが、ナボトという男のぶどう畑を望み、無実の罪を着せて不当にこれを奪い、ナボトを殺害したことの報いとされる。エリアは、神からイエフが王になる預言を受け、ナボトが殺害されると、アハブに会い、ナボテの畑を取ったことを責める神の言葉と、アハブの家が滅びる預言を伝えている。】
このニュースはすぐにヨーロッパ、アジア、アフリカのユダヤ人コミューン(共同社会)に伝えられ、人々に熱狂をもって迎えられ、シナゴー� ��では、ツヴィへの祈りが捧げられたという。彼をメシアとして信奉する人たちをサバタイ派というよね。
こうして、ツヴィのメシア宣言から1年たたないうちに、彼によってユダヤ教世界は統一され、彼は全世界を26人の高弟に分割して分け与えるなどもしたらしい。しかし、オスマン帝国に危険視され、捕らえられ、イスラム教への改宗を迫られると、彼はあっさりと改宗してしまったんだ』。
翔「最大の裏切り行為だね」。山崎「でもそうならなかったんだ」。翔「なぜ?」。
山崎『ナタンが「ツヴィは、サタンの勢力が巨大なため、悪の王国の内部に侵入したのである。彼の戦いは、ローマ戦争のバル・コクバのときのような、単純な地上での戦いではなく、霊界(セフィロト界)にわたって展開されている。悪の一 部になりきった者のように振舞い、着々と救済の準備を進めているのだ」と、サバタイ派の人たちを納得させたからだという』。
翔「なるほど」。
山崎「改宗後もツヴィは、ひそかにユダヤ教との関係を続け、シナゴークに現れたり、信者を集めてカバラを教えたりしたため、トルコ政府によって、アルバニアに追放され没している」。
翔「その後のカバラ運動は?」。
山崎『その後、何人もの自称メシアを生み、18世紀には「ハシディズム」(ハシドは敬虔な者の意)という宗教運動が起こる。この運動は現在でも継続されているというよ。
ハシディズムの創始者は、イスラエル・ベン・エリエゼル(1700頃〜1760)というウクライナのラビで、ハシディズムはウクライナ地方に始まり、急速にヨーロッパ� ��広まり、のちにイスラエルやアメリカに及んでいるらしい』。
翔「ハシディズムとは?」
山崎『ハシディズムとは、カバラを大衆に広める運動で、伝統的なシナゴーグに対し、シュティブルという独自のシナゴーグを持ち、ツァディーク〔義(よ)き人の意〕と呼ばれる霊的な指導者のもと、エクスタシー的な状態の中で、全ての思考と感謝を神に集めて祈るものだという。
正統派からは異端、知識人からは狂信と軽視されつつも、現在に至っているというよね』。
Q、ラスタファリズムとレゲエ
山崎『黒人のシオニズム的運動に「ラスタファリ運動」〔思想としてはラスタファリズム(略してラスタ)〕がある。1930年代に、ジャマイカの労働者階級と農民を中心にして起こった宗教的運動だね。
【 ジャマイカ… 中央アメリカ、カリブ海の大アンティル諸島に位置する立憲君主制国家(イギリス王を元首とする)。英連邦王国の一国。1962年にイギリスより独立。ジャマイカ国民の90%以上は黒人奴隷または逃亡奴隷の子孫。ジャマイカの宗教は、プロテスタントのバプティスト派が多数派(プロテスタントが60%を超え、カトリックは5%に満たない)であって、ラスタファリズムは5〜10%前後。】
ラスタファリズムでは、聖書を聖典とするものの、特定の教祖や開祖はなく、教義も成文化されていない』。
翔「どのようなことが特徴としてあげられるの?」。
山崎『アフリカ回帰主義だね。他には、菜食主義、ドレッドロックス〔髪型の1種。本来は長期間ブラシ、櫛、剃刀、はさみを使用せず、頭髪を自然に成長させるま まにしておく事で形成される〕、大麻を聖なるもの見なしたりするよね』。
翔「アフリカ回帰主義?」。
山崎『エチオピア帝国最後の皇帝 ハイレ・セラシエ1世を ジャー〔唯一神 ヤーウェのこと。ジャーはその短縮形〕の化身、またジャー自身だと信じ「全てのアフリカ人がいつかアフリカへ帰る」といったシオニズム的思想だね』。
【 ハイレ・セラシエ1世(1892〜75。在位 1930〜74)… エチオピア最後の皇帝。36年にファシスト・イタリアがエチオピアに侵攻、41年にイギリス軍に解放されるまでイギリスに亡命。60年には、皇太子を擁立した陸軍近衛部隊のクーデター未遂事件が起こる。
73年には、国民が食糧難に苦しむさなか、皇帝が飼育しているペットのライオンに肉を与えている写真が発表され、また孫で海軍副総督のイスカンデル・テスタが、銃を突きつけて退位を迫る事件が起きている。
74年には、軍が反乱を起こし、立憲君主制への移行を発表するも、時すでに遅く、陸軍のクーデターにより逮捕・廃位。翌年、拘禁中に死去(暗殺説もある。また97年には、廃位直後に射殺されたと発表されている)。】
翔「またなんでエチオピアの皇帝なの?」。
山崎『ハイレ・セラシエ1� ��をジャーとする考えは、カリスマ的演説活動をなした マーカス・ガーベイ〔1887〜1940・ジャーナリスト。企業家。黒人民族主義の指導者。世界黒人開発協会アフリカ会連合の創設者。ジャマイカで初の労働者のための政党を設立。ジャマイカの国民的英雄で、ジャマイカの20ドルコインの肖像になっている〕が1927年に「アフリカを見よ。黒人の王が戴冠する時、解放の日は近い」という声明を発表し、
30年にその預言どうりに、エチオピアの皇帝に、ハイレ・セラシエ1世が即位したことからきているらしい。その結果、ハイレ・セラシエ1世は、南北アメリカ大陸の黒人たちから、アフリカ大陸を統一し、離散した黒人をアフリカに帰還させる救世主として崇められるようになったそうだ。
ラスタファリアン(ラスタの実践者)たちは、ハイレ・セラシエ1世を ジャーと信じるとともに、マーカス・ガーベイを預言者とみなすよね。
マーカス・ガーベイの主張は、ヨーロッパの植民地からアフリカを解放することにあり、彼は、エチオピアニズム〔近代になっても植民地化されなかったエチオピアを黒人の故郷とする立場〕を拡大し、黒人に対してアフリカに帰ることを唱えたとされるよ。
ただ、マーカス・ガーベイ自身は、ラスタファリズムに同調することは一度もなかったそうだ。
救いを求める下層民を中心にラスタファリアン(ラスタの実践者)が増えたことから、34年にイギリス植民地政府は弾圧を開始。弾圧を逃れた人たちは山の奥地に逃げ込み、そこで共同生活をしつつ、ドレッドロックスや大麻による儀式などラスタファリズムのスタイルと信仰を確立していったそう� �。
62年にジャマイカがイギリスから独立するも、社会は不安定のままで、ラスタファリアンはアフリカ回帰を望んだという。
そして66年には、ハイレ・セラシエ1世がジャマイカに来訪し、ラスタファリアンから熱狂的歓迎を受けている。セラシエが「ジャマイカ社会を解放するまではエチオピアへの移住を控えるように」というメッセージを主な信者に送ったことから、
その後、ラスタファリズムは、アフリカ回帰=シオニズムよりも、ジャマイカ解放=バビロン捕囚からの解放へと移っていったみたいだね。
70年代になると、ラスタファリ運動は、レゲエの音楽家を通じて全世界に広がっていったという。
レゲエは、1960年代にジャマイカで成立したラスタの思想やメッセージを伝える音楽で、イ� ��ラエル民族になぞらえ「バビロンと戦い、これを打ち破り、ザイオン(シオン=アフリカ)に帰還する」といったような歌詞がしばしば見られるそうだ。
但し、全てのレゲエ音楽家がラスタファリアンというわけではなく、レゲエの歌詞の主題は様々らしいね』。
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